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幸せになれないのは、不幸を望む自分がいるから。

生きることが辛いのは、
思惑通りにいかないから。

そうであって欲しい理想と
現実にギャップがあるから。

苦しさを解消するためには、
理想を体現するよう努力するか、
理想を諦めるかしかなかった。

努力も根気も足りず、
怠け者で、飽き易く、
ルーズなダメ人間だから、
理想的な自分とは程遠いまま、
苦しんでいる。

苦しさから逃れるために、
理想を諦め、楽になったものの、
嫌悪感は増した気がする。

けれど、思うのだ。

私が辛いのは、
努力不足というより、
理想が間違っていたから
ではないだろうか?


私は、幸せな人生を望んでいるし、
より良くなろうと思って生きてきた。

そのための理想だったはすなのに、
叶えられない自分を認められず、
叶わない理想を諦めれば自己嫌悪し、
望み通りにならない現実を
理不尽だと思って生きてきた。

理想に到達する以外、苦しみや辛さ、
怒りや失望しかないのだから、
人生が辛いのも当然だった。

今ある現実は、過去の選択の結果。

なら、苦行過多な人生を選んだのは、
紛れもなく私、ということになる。

なぜ、幸せを願いながら、
結果、苦しみばかりの人生を
選択することになったのだろう。

幸せは、苦労の末に得られるもの。
より良い人間になるためには、
相応の努力するのが当たり前。

そんな無自覚な価値観が
あったのかもしれない。

認められない自分の裏には、
認められて当然の自分が。

出来ない自分を嫌いになるのは、
出来るはずの自分がいるがいるから。

現実が理不尽なのは、
思い通りになる現実がデフォルだから。

本来なら、認められ、出来るはずの自分。
当然のように思い通りになる現実。

そんな傲慢な価値観が隠れていたのかも。

現実離れした価値観を手放したくないから、
悩み苦しむ現実を選んでいた。
もちろん、無自覚に。

苦しむ代わりに、認めたくない自分や
望み通りにならない現実と
向き合わなくて済んでいた。

自分と向き合うことが、怖かったのかな。
幸せよりも大切なことだったのかな。

価値観が選択の基準なら、
不要な価値観を手放せば、
それだけで未来は変わる。

けれど、
表面的な価値観を手放したところで、
隠された価値観の方が強力に作用する。

幸せを願いながら、
苦行過多な人生になったのも、
自分と向き合うくらいなら、
苦しんだ方がマシだと思っているから。

認められない自分、出来ない自分と
折り合いがつけられないから、
現実や社会のせいにしてきた。

自分がその程度の人間だなんて、
信じたくなかった。

私の苦しみの原因は、
自分のことが好きすぎるからだろうか?

逆に、好きになりたいのに、
好ましいと思えない価値観があるのかな?

なぜ、出来ない自分ではダメなんだろう?
なぜ、等身大の自分を恐れているのだろう?

愛されなかったから、かな。母に。

愛されない自分を恐れている。

自分を恐れているから、
自分以外になろうとしてきたのか。

私の価値観は、
愛されるために構築されている。

だから、
人に受け入れられないと焦るのかな。
私が感じる不安は、
本能的なそれより強いのかも。相当に。


苦しみの原因は、
愛されない自分への恐怖。

こうすれば母に愛される。

その寄せ集めが、私の価値観となった。
そして、未だ手放せずにいる。

愛されない自分を封じ、
愛されない恐怖を感じないために。

今にして思うと、
そこまでして母に愛されなくても
楽しく生きる方法はあったと思う。

それが出来なかったのは、
母に愛されない自分を、
私自身が愛せなくなったから。

嫌悪して、憎悪したことで、
想いが反転するようになった。

寂しくても、強がり、
愚かだから、知ったかぶりをして、
好きなのに、可愛げのないことを言い、
全く素直じゃなかった。

愛されるための価値観なはずなのに、
コアにあるのが恐怖だから、
全てが裏目になってしまった。


私の中にある最優先の価値観は、
愛されない私を恐怖から守ること。

それが、私にとって
最低限で最大の幸せだから、
向き合うより、苦しみを選んだ。

愛されない恐怖は、
愛される価値観を構築し、
愛される自分になることを選んだ。

愛されない自分は、
心の奥深くに葬られた。
私自身への憎悪と共に。

それが、母を憎むことに
すり替わったのだろうな。
八つ当たりもいいところだ。

愛されなかったことより、
自分を愛せなくなったことが、
問題だったのかもしれない。

愛されない恐怖より、
愛されない自分への憎悪。

幸せを選べないのも、当然。

憎んでいる相手の幸福なんて、
望めるはずがない。

私が苦しいのは、
苦しむことを望んでいるから。

憎んでいるから、
幸せになんかしたくないのかも。

だから、
赦したくないし、
認めたくないし、
信じられもしないのか。


母に愛されるための価値観を
未だ、手放せずにいる。

母は、もういないのに。

私自身への憎悪がそれを妨げている。
私の幸福を妨げている。

誰でもない私自身が、
私の不幸を願っている。

どうしたら、
愛されない自分を憎まずにいられるのだろう。

認め、赦し、信じられるようになるのだろう。

愛されない自分と共に
生きられるようになるのだろう。

たぶん、それが叶ったら、
私は幸福を感じられるのかもしれない。


私の幸福は、理想が叶った先にはない。

理想とは真逆の、
愛されない自分として生きること。

自分を憎むことも、恨むこともせず、
理想とのギャップに落ち込んでも、
そんな程度の自分を否定することなく、
可能な限り現実を肯定して生きてゆく。

私の幸福は、条件ではなく、状態。

今ある状態の肯定度。

現実に左右されることなく、
そのままの自分自身を偽ることなく
感じられたら、快適だろうな。

自分を偽らず、
あるものを否定せず、
敵意なく、嫌なもの、
許せないものはそのままに、
どこにいても、誰といても、
器の小さい自分でいられる。

そんな気楽で快適な状態がいい。


幸せを求めながら、苦しかったのは、
真逆の人生を幸せだと思っていたから。

不幸になるよう仕向けられていた。
私自身の無意識によって。

幸せになりたいのなら、
不幸せを願う自分と和解すること。

今はまだ、
どうすればいいかわからないけれど、
たぶん、そういうことなのだと思う。

fumori

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