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愚か49

 私の絵は明らかにデッサンを無視している 実際こういった生命体は存在しないし、そのほうが見栄えが良ければ普通に腕を伸展させたりなどもする だというのに「絵は自由でいい」というような書き込みを見てもかなり他人事として素通りしてしまうし何なら「自分は型を破っている」という意識すらない これはなぜか 考えたのだが恐らく私は「既存のルールを無視している」というよりも「私のルールに従っている」という認識で絵を描いている からかもしれない 「既存のルールを離れ自由にやっている」または「自由にやりたい」という意識はない 自分の中の規則には間違いなく従っているので そして私個人はその「自分の規則」と同じくらい「外部の規則」も尊重すべきだと考えているため特に他者を害する、押し除けてまで自分のルールを通そうとも思っていない その意識が生活にまで薄く影響して結果「害があるわけではないが無法者」というニューサンスのような存在になり、遠巻きにされがち 無意識にルールの穴を突いて微妙にはみ出てしまった事数知れず、私のせいで追記されたルールも数知れず
 文章にすると屁理屈や言葉遊びに近いが、実際そういった意識が私の、自分自身の変さへの自覚を鈍らせているところはかなりあるので危ない 得てして無意識の中にあることが多い「自分のルール」をなるべく明文化して、外部のルールとのすり合わせをしておかないとどんどん社会から浮いてしまう もう手遅れの可能性はかなりありますが…

 私の理性はずっと「普通に生きたい」といっているのに体が余りにも全てに反抗し続けている ついに人生のレールにも反抗してしまった いや画学生になった時点でだいぶ反抗指数が高いが…(当時普通に不安だったので目指し始めた時点で「止めるなら止めて欲しい」と思っていたが全く誰にも止められなかった 理由は「あなたはそれ以外なさそうだから」 いやありがたくはあるが)こんなにも型にはまりたいのに嵌ろうとした型が次々と壊れていく 何故 どうして だが、普通に生きたすぎてずっと常人のエミュレートをし続けた結果、誰からも遠巻きにされ神経を壊して未だ治らない重篤な認知の歪みを抱えることになってしまったので、もう開き直って「私自身」を目指した方が逆にいいのではないかと思い始めた そうなれば「普通になりたい」という思いは邪魔でしかない ゆっくり取り外し、私なりの持続可能な現実を探せたらと思う 小心な私のことなので、おそらくブレーキを外しても碌な速度は出せませんので…

 色々考えたが、せせえあい(検索避け)の描く絵というのは「大衆がいいと思った絵」の集合から弾き出された結果であり、そういったことをする機械に自分の絵を学習させて「改良」する、というのは「100%周囲の意見に合わせて自分の絵柄を矯正する」に近いのではないか では現在の私の行動指針にとってそれは自殺に等しいと思う 私がそう思えるのも、ありがたい事に自分受けと社会受けがある程度一致していて、なおかつせせえあいが捨象を苦手としているから、つまり運が良かっただけであるとは思いますが…

 生活が、したい おわります


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