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愚か38

(この記事の情報に信憑性は一切ないものと思ってください これはただの日記です)

 学生の頃、授業での研究テーマに「かわいい」を選んだことがある 俗に言われる「心理学徒人の心わからないから心理学徒になりがち現象」のように、私も「かわいい」がわからないからこのテーマを選んだ 研究自体は「かわいい」の語源、世界での「kawaii」、ベビースキーマなどを掘り下げていき無事終わったが、私としては「かわいい」という概念に対する不信感が生まれてしまった
 薄々思ってはいたことだが、あの時で本格的にあまり綺麗な感情ではないと感じた 日本語の「かわいい」の語源は憐憫を含み、英語の「cute」は相手のプライドを否定する言葉としての側面もある 周囲を見ても何か薄らとそれを理解していそうなのに誰もがそれに蓋をして時に手放しに称揚し、時に凶器として使う それに漠然とした違和感をずっと感じている 綺麗であろうがなかろうが「自分より弱いものを守るのに役立つ」というような存在意義もあるのだろうから存在自体は否定しないが、「かわいい」という言葉は時に成熟を否定して他人の尊厳を蹂躙するものにもなる というのは表現者の端くれとして意識的であった方がいいのかなと思ったりする が、全然意識せずに何かを作った方がいいのかもしれない 普通に生きづらいし今のところあまり益を感じないので
 そのようなものを想像する方が悪いのは前提としても、100%のかわいいを見ると、なにかざわざわする どうしても何かが存在ごと抹消されているような気がする 不自然さを感じる 「他者を一切害さず心地よさだけを与える存在」というものは基本的に私の中には存在しないのだと思う 「かわいい」の中に溶かされて消えてしまったそのキャラクターのプライドや自我や悲しみや苦しみを考えてしまう そのような事を考えているからいつまでも生きづらい 他人の楽しみに水を差す 誰の間にも馴染めない これは優しさなどではなくただの自他境界のなさと自惚れだと思う 早くこのようなものは捨てて自由になりたい どうせそのような事は気にしない人間同士で世界は成り立っている

 と、思うのも私がまだ「大人」でないからなのだろうなと思う 私にはまだ、「かわいい」の一言で尊厳の全てを否定された、頭でっかちだった子供の頃の記憶があまりにもはっきりと残っている 不完全性の大きなものへの配慮された表現や嫌味として「かわいい」を使う少女たちのことも知っている だからこそ理想化された「無垢さ」を子供に重ねてそれをなぞろうとする人間の事を子供として「お前は偽物だ」と糾弾したくなる
 子供の「かわいくない」部分を認識しなくなってしまった時、「子供」を完全に他者化してしまった時こそ私が「大人」になる時なのだろう あまり来て欲しくはないなと今は思う

 こういった事をつらつら書いておいて、私のかわいい嫌いはつまるところ数年前に好きだった人に合わせてその人の好きそうな無害そうな笑顔ばかりを描いていたせいのような気もしてきた 結局は私怨ですか くだらない

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