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愚か42

 やさしい人になりたい 腹の下の攻撃性が非常に高いので余計にそう思う 以前のように「完全に自意識を殺して他人のためだけに生きて潰れて死ぬ事が正しい」と思うことは少なくなったが、それでも攻撃性や倫理観の欠如を完全に制御・補正して人間らしく生きたい、生きねばとは思う 今や滅多に人に会わなくなったので制御もへったくれもなくなってはいますが…
 私は攻撃性を「押し殺すもの」ではなく「制御してなるべくましにするもの」だと思っている 例えばどうしても怒りが止まない時、実はそれは当惑や悲しみである事が多いので何か相談先など伝える相手がいる場合は「自分は怒っている」というよりも「自分は今取り乱しているんだ」という事が伝わるような態度や言葉遣いを意識したりしている 「(お前のせいで)悲しい」「(お前のせいで)戸惑っている」というニュアンスは一切含ませないようにする そういうニュアンスを含ませるとそれは全然普通に怒りなので…
 何というか、私は悪感情に蓋をしていると変なところから出てきてしまうのです なのでいっそ正面から向き合って適切に認識して適切な対処をしたほうが私にとってはむしろ健康なのではないかと思う 「理性的である」という事は「常に冷静沈着でいる」というよりは「その方が適切なら適切なレベルで感情的な動きもできる」事ではないのだろうか 意中の相手には「自分と付き合うべきn個の理由」をプレゼンするよりもストレートに思いを伝えた方が往々にして良いように…
 感情的になっている時に「自分は今感情的になっている(からまともに受け取らなくていい)」と柔らかに態度に示す、大きな主語は使わない、難しい言葉も使わない これは恐らく「やさしさ」というよりただの「無害さ」、しかし人畜無害でいる事すら私には本当に難しい 思うに「やさしさ」というのはもっと能動的なもの、しかして意識すれば一転助平心となって疎まれる繊細なもの…非常に難しい…

 最近、概ね「ピュアな感性」というものについての記事を連続で目にした 私は、俗に言う「子供のピュアな感性」というのは何と言うか、子供が子供である限りは概ねある自然現象のようなもので、特に持て囃すものでもなければましてや嘲笑うようなものでもないと思う それが成長とともになくなっていくのもただの自然現象で、悲しいことではない 大人になってから大事なのは子供の頃にあったピュアな感性(とやら)を「無くさない」事ではなく、憧憬でも美化でもない形で、尚且つ理性と客観性を持ってそこに立ち返る事ができるか、つまり「子供の頃の感性と大人になって増えた知的リソースを掛け合わせて新しいものを作る」事が大事なのではないかと思う というかまあ、私がそうありたいだけなのですが…

 諸々いい感じになって欲しい 終わります


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