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愚か46

 「生きているだけで偉い/100点/(任意の評価基準における最高評価)」というような言葉にどうにも違和を感じる まずなぜ「偉い」や「100点」など、任意の評価基準の上での最高評価なのか 「生きているだけで肯定されたい」というほどに不全感を抱えている(人間の気持ちが理解できる)のにも関わらず既存の価値基準を温存する姿勢は読んでいて怖い さらにこの言葉を発信するという事はどのように優しい口調で書いていてもその方は「採点者」なのですよね 怖すぎる どんなに近しい人間であろうと関係はない たとえそれが最高評価であろうとなぜ他人に採点されなければならない? 本当に怖い

 さらに、本当に「生きているだけで偉い」というしかないような境遇の人間は果たしてそのような言葉を掛けられて喜ぶのだろうか?という疑問もある 例えば私は周囲に「立って歩けているならばそれで良い」と言われている程著しく身体能力が欠如しているのだが、学生時代の体育の時間をはじめとして身体能力の欠如による惨めな思いは沢山している そうでなくても実社会は「立って歩ける」だけの人間を許さない事は知っている それが「生きているだけで良い」になるような人間がどれだけその人生において惨めな思いをして、どれだけ「生きていれば良い」などという事などないのだという事を痛感しているかは想像できる 少なくともそこまで考えが巡るつもりではある 

 大意としては「頑張ることに疲れたから誰か慰めて欲しい」という需要に合致する言葉なのだろうが、それだけに「評価」という軸から逃れられていない事が非常に怖い 「評価」という土俵で戦う事をやめなければどのような慰めも一時の鎮痛剤に過ぎないのではないか?醜形恐怖の人間にとって整形が根本的な解決たりえないように…
 もしもう一時の鎮痛剤で延命するしかないほどに救いようもなく逃げ場もない状況に置かれているならばそれはなおさら甘い言葉など求めている場合ではないし、本当にあの言葉の需要も意図もよくわからない 私が一番大変な時であってもそういった言葉に救われることはなかった おそらくツボが別のところにあるのだろうと思う

明日はエイプリル・フールです どのような嘘をつきましょうか 「みんなが一等賞」 なんて言いますか?いやまさか…

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