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私は誰

 戸籍や国籍などが保証する「生きていくためのアイデンティティ」とは別に俗に言う「何者かである」という事、承認欲求などに由来する「高次のアイデンティティ」が存在している 気がする 「自分はこうである」と何となく思っていられるという事、というと自己肯定感にも近いものかもしれない
 私に「高次のアイデンティティ」はあるようなないような あるのを無理やり潰しているような そういった感じだ 以前にも書いたが「私には何もない」というには私は良くも悪くも様々なものを持ちすぎているし、周囲にもそう扱われてきた 私はどこでも浮いている自分を恥じてそれらを潰し、他者からもたらされる価値観に依存する事で「常人」になろうとした 他者の価値観を「絶対」と仰ぐ事により、周囲から散々「間違っている」と言われ続けて揺らいだ高次のアイデンティティを立て直そうとしたのだと思う
 高次のアイデンティティに揺らぎのある人間にとって一番手っ取り早くアイデンティティを保証してくれるように見える方法の一つが「外部概念にアイデンティティを委ねる」という方法であると思う アイデンティティに揺らぎのある状態に置かれると、「信じられるもの」、「絶対的なもの」が欲しくなる 「自分は確かにここに立っている」と思うためのものだ 何なら生涯もう金輪際高次アイデンティティに困る事のないほどに絶対的なものであって欲しい それが私にとっては「他人の価値観」であった
 しかしこの世に絶対は存在しない 特に価値観の絶対性は人間の多様化が進んだ現在急速に崩れつつあると思う 言ってしまえば現在あらゆる価値観は常に崩壊の危機に晒されている そんな状態で何であれ外部の「価値観」に高次アイデンティティを完全に委ねて「任意の価値観=自分」となってしまうとただでさえ揺らいでいる自意識は絶えず攻撃にさらされたようになり、何なら委ねる前よりも不安定な状態になってしまう その価値観にまつろわぬ他者は全て自分を攻撃する敵に見え、攻撃的にもなりがち
 私が選んだ「他者の価値観(私自身ではなく、観測する他者こそが私を決定づけるのだと思う事)」はその中でもあまりにも流動的かつ不確実であったと思う 縋るにしてももう少しましなものがあった気がする まあ「特定の価値観に縋る事」そのものが救いに見せかけた大きな罠であると思うので何に縋るにしろ体に悪いとは思うが…

 ではこの永遠に続くかのような心細さをどうするべきなのだろうか 今の所「比較的揺らぎがたい価値観に委ねすぎない程度に自我を委ねる」か、「『自分自身』に高次アイデンティティを戻す(自己を肯定する)」か…と思っているが、同時に「それができたら苦労はしない」という気持ちもかなりある 今の自分から近そうなのは後者のような気がするのでひとまずやってみたいと思う

終わり

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