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愚か31

 少し前から風邪を引いているせいか、情報への嫌悪感がひどくインターネットに入り浸りになるのを控えている どうせ通院が必要なほどに精神が弱いのだから、少しくらいは許されるだろうと思う 誰に言い訳しているのかはわからない
 意思を発そうとすればするほど悪意ばかりが出てきそうになる そうでない時は何もできない 昨日、もう出なくなって二年は経つはずの持病の症状が出てしまい、様々なことを思い出した 私はずっとこの感覚の芯を誰にも共有できないまま死んでいくと思う 私の中に、絶対に誰にも触れられない部分があることが苦しいような、嬉しいような

 どこにいても、「誰」として活動していても、その場の誰にも理解できないようなバランスで立っているような感覚がある 絵にしてもそうだ デフォルメにしては子供らしくもなく、カートゥーン的に整った線も強いポップさも持たない デザイン的かと言えばイラスト的な癖が強すぎる 別名義だってそう レトロを標榜する割には当時に寄せきれていないが開き直って現代レトロポップになるにはレトロすぎる 常に私はあわいにいる ような気がする 全てに傾倒しきらない という美意識があるかのように振る舞っている 何かに傾倒することは今の私にとって刺激が強すぎるからかもしれない 感動や熱狂から、常に少し離れた所にいないと疲れてしまう などと書いておいて数十年後に何かの思想にかぶれていたら面白いな 面白くないが

 以前人知れず出た展示会でイラストの講評を受けた時、「距離感を使いこなしている」というような事を言われた 巨視的な表現も微視的な表現もでき、それをまるで友達のストーリーズのような距離感で伝えてくる らしい 何というか、私の絵は企業のCMのような小綺麗さではないのだろうな 実際小綺麗な絵は描けないし、あまり描こうとも思えないので何とも言えないが、表現したいものを描く視点の遠近を変えるのは確かに好きだ というか、私の二つの名義はまさにその違いで成り立っていると思う あちらでは遠く、こちらでは近くあろうとしている 自分の悲しみを見つめたい時は近くを仔細に見る 何気ないものが私の悲しみを克明に模っているのが見える そうしたい時が私にはある

 最近、音のようなものと詩のようなものを作り始めた 音周りの人間の多い周囲にどう思われているのかは知らないが、私にはこのくらいの温度感が丁度いいなと思う作り方ができていて良い 全くの素人のため半ば開き直っており、「伸び」などが全く目に入らないのもいい 良い音源にも出会えて非常に嬉しい 花房瑞稀さんとQuartz v2.0.0さん、好きです 声の温度感が非常に良い これからどうしますかね この路線を突き進んで行こうか、歌モノを作れるよう鍛えるか…夢が広がります

終わり

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