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絵と向き合う時考えること

今回は体調を崩してしまったため,日曜日の更新とさせていただいた.

いろんなことに振り回されてしまう今日この頃、今回は“絵を観る”ということについて書きたいと思う。

僕は映画も、漫画も、小説も、写真も、絵も、不意に通り過ぎてしまうようなtwitterのつぶやきも好きだ。

なぜなら、全ては“頭の中を表に出す”という意味で表現だからである。

中でも、自分の中で新しい向き合い方を見つけられたのが“絵を観ること”だった。

幸運なことに、ここ3年で今まできちんと観たことがなかった2人の画家を主役に置いた展覧会を観にいくことができた。

アルフォンス・ミュシャ と フィンセント・ファン・ゴッホである。

ミュシャ展に行った時は、さらに幸運なことにチェコから全く度とに出たことがない名画 "スラブ叙事詩" を見ることができた。

時は2017年.3年前,ちょっと観たろうかいというノリで足を運んだ僕は,ただその絵の巨大さに圧倒されるほかなかった.


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※この展覧会では写真撮影可能なエリアがあり,上2枚はその場所に展示されていた作品である.

デケェ・・・スゲェ・・・

その二言しか出てこないほど,完膚なきまでに打ちのめされたのである.

民族の歴史を背負いつつ,壁のような大きさの隅々まで緻密に描かれたその絵画の熱量にミュシャミュシャされてしまった.

このミュシャミュシャした気持ちを言葉にできないまま,2年がたったある日.

今度はゴッホ展に足を運ぶ機会を得た.

そして,深い業をぶつけられたカンバスに向き合ったとき,

あっ,ゴッホもこの距離で絵と向き合っていたのかもしれない.

この距離で,彼の捉えた世界を形にしようと戦っていたのかもしれない.

と思ったのである.

そう感じると,表面に現れる凹凸を一つ見ても,

やっぱり迫力が違うなという気持ちから

かたちを捉えようと格闘し,悩み抜いて見出した活路の筆致に見えてくるのだ.

他の作者の作品を見たときにも,

この人はどんな風に世界を捉えようと格闘したのだろう

この線にはどんな心象,現象を捉えようとした意図があるんだろう

と考えられるようになり,より作者を身近に感じることができた.


時間を飛び越え,言葉ではなく,姿勢と業の深さを直接伝えられた気がしたのだ.

そして今考えると,ミュシャ展に受けた時の感動は

どうやってこの作品を描き抜いたのか,どうやってこの巨大な作品に向き合っていたのか.

それが自分の理解を超えていたから,ちゃんと言葉にできなかったのだと思う.

あぁ,世界を回って偉大な作品から刺激を受けてみたい.

学生のときに沸き立たなかった欲が,今ふつふつと湧き上がっている.

また移動が自由になった暁には,そのために世界を旅してみたい.

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