見出し画像

世界のみんなと深呼吸

「運動場に隕石でも落ちればいいのに。そしたら、体育の授業がなくなるのに」

小学生のころ、窓の外を睨みつけながら何度もそう願った。空はすっかり晴れていて、雨で体育の授業は中止になりそうもない。校庭自体がめちゃくちゃになってしまえば、体育の授業を受けなくてすむのに。

体育の授業を受けない、もっとも簡単な方法「ずる休み」をしたことだってもちろんある。ただ、あんまりずる休みのレパートリーがなく、嘘をつくのも嫌だったので大嫌いな鉄棒の授業の時だけ、その必殺技を使うことにしていた。

年を重ねるごとに「お天気もいいんだから、外で遊んできたら? みんなドッジボールやってるよ」なんて言われなくなってほっとしていた。大人になってからは少し体力をつけるために近所をジョギングすることもあったけれど、スポーツとは縁遠い人生を送っていた。

しかし、ここ一年の間で、わたしはすっかりある武術にハマってしまった。4月、5月の自粛中にはほぼ毎日と言っていいほどZoomで行われているオンライントレーニングにも参加していた。

その武術は「システマ」というロシア発祥の軍隊格闘術。軍隊格闘術だなんて身体を酷使しそうなものとは、まったく真逆の生活を送っていたのに。

何年か前に、偶然見ていたテレビ番組でシステマを知ることになり、わたしはその時からすっかり魅了されてしまっていた。

日曜日の夜、「世界の果てまでイッテQ!」を見ていたときのことだ。お笑い芸人のイモトアヤコさんがロシアを訪れていた。そこで「システマを習得して、万が一に備えよう」という企画があった。そこでイモトさんは巨漢の男性にパンチを受け、床に転がり落ちていた。イモトさんと結婚された石崎ディレクターも「またまた大げさな」と言いながらパンチを受け、悶絶しているというものだった。

そのVTRは、どちらかといえばお笑い要素が多い(殴られて、痛がって転がる)ものだったと感じている。けれど、その映像を見たときに、わたしはものすごく衝撃を受けた。確かに屈強そうな男性がパンチをしているけれど、それだけであんなに倒れ込むほどに痛いのだろうか? ただ何気なく腕を振るっただけに見えるのに。何か特別な力が働いているのかも知れない。そんなふうに思ったのだ。

「システマって不思議な武術だな、いつか習ってみたい」そんなふうに思ったのが2015年の秋のことだ。それからすぐに学びにいけばよかったのだと、今になって後悔する。

けれど、その時は「でもやっぱり怖そう」と尻込みしてしまった。柔道や合気道はおろか、誰かにスポーツを習ったこともなかったし、駅の階段の上り下りくらいでふーふー言ってるのに、軍隊武術はハードルが高いように感じていた。夫にも「ケガするし、危ないよ」と止められるたびに、確かにその通り、となかなか行動に移すことができずにいた。

ただ、色々と調べていくとカルチャースクールで講座があることがわかり、体験の申し込みを決意した。1日体験会に参加していた男女比も半々くらいで、ちょっと胸を撫で下ろした。

かなり身構えて体験会に臨んだのだけれど、はじめに教えてもらった言葉がとてもしっくりきた。

「健康な戦士は、不健康な戦士を圧倒する」

戦士というのが軍隊武術っぽいけれど、ものすごく真っ当なことだった。過去に心身をこわして仕事をやめたことのある身にとって、とても響く言葉だった。

システマは軍隊武術で、その創設の歴史をみると武術の域を超えている。ロシア軍の特殊任務部隊に所属し、様々な特殊部隊で指揮をとったミカエル・リャブコによって創設された武術。武術というより、戦闘地域での格闘手段。自身の命が奪われかねない状況で、どのように対処していくか。

ただし、日本のカルチャースクールなどで学べるシステマは、創始者の考え方にそった身体の動かし方や呼吸法、マーシャルアーツとしての側面が強いものだった。

おっかなびっくりではあるものの、かなりほっとした。体験会で骨折したらどうしよう……と、不安に駆られていたけれど、どうにかやっていけそうだ。カルチャースクールで月二回のシステマ受講を申し込んだのは、2019年6月の終わりごろだった。

初めのうちは月二回だけでもくたくただった。翌日、翌々日、翌々々日くらいまで筋肉痛を引きずっていることもあった。もっとも、これはわたしの運動不足からなるものでしかないのだけど。

クラスに通っているときに、思ったように体が動かないことばかりでもどかしい。それでも講師の北川貴英インストラクターは、「それは伸び代だから、どんどん練習を重ねれば強くなりますね」とニコニコしながら言ってくれた。伊藤烈インストラクターも「難しく考える必要はないんですよ。できないって思わないで」と前向きなアドバイスをしてくれた。

システマの難しいところは「型」がないところかもしれない。武術についてそれほど詳しく知っているわけではない。けれど、柔道にしても合気道にしても決まった技や型があり、その型を自分の体に落とし込んでいくという印象がある。

システマには決まった「型」がない。技らしいものと言えばストライクと呼ばれるパンチだろうか。イッテQでイモトさんが体験していたのがそれだ。

発祥が戦闘であるため、型に当てはめていけるシチュエーションじゃないから、ということらしい。その代わり、というわけではないけれど、システマでは「呼吸」がかなり重要な役割を担っている。

あらゆる場面で訪れる緊張に対して、呼吸で対処する。リラックスするというのがシステマの考え方。緊張に飲み込まれるのではなく、緊張を利用して、さらに強くなろうというもの。呼吸を深くすることで、パニックに陥らないように。肉体的に強くなることだけじゃない。システマで用いる呼吸法は、精神的・心理的にも恐怖に飲み込まれないようにする、メンタルマネジメントにおいても働きかけている。

最近では呼吸を戦術に用いたマンガ「鬼滅の刃」が大人気である。「鬼滅の刃」で主人公たちが体得している呼吸法の原理は、システマの呼吸法と似ているところがあるように感じる。常に呼吸を止めず、動き続けることをシステマでは重要視している。もっとも、どの分野であれスポーツをするときに、「呼吸によって身体を動かす」のは重要な要素のひとつに違いないのだけれど。

自分の身体なのに、全然思うように動かせない。呼吸すらうまくできない。それでも「わけわからんから、やーめた」とは思えない。むしろ、学ぶほどに面白くなってくる。同じクラスに通っている人たちとも次第に打ち解けてきた。

わたしは身体の使い方がまだわかっていないし、伸びしろだらけだ。月二回のカルチャースクール通いだけじゃ物足りないなあ。もうすこし、仕事の時間とか調節して他のクラスにも参加しようかな。

まだ先になるだろうけれど、仕事のスケジュールをどうにか調整してロシアか、カナダへ行ってシステマを学びたいなあ。パスポートの期限、切れていたのを、新しく申請しなくっちゃ。

そんなふうに考えていた矢先のことだ。カルチャースクールでの講習が三月からストップしてしまった。システマは接近して組み合うことのあるスポーツだ。そして、あれよあれよという間に海外への渡航が難しくなった。

2020年5月には、システマの創始者ミカエル・リャブコ師がロシアから来日し、セミナーを行ってくれる予定になっていた。初めてお会いできるのを心待ちにしていたのだけれど、それもできなくなってしまった。

ちょっとしょんぼりしていたのだけれど、あれよあれよという間に北川インストラクターがZoomでのオンラインクラスを立ち上げてくれた。自宅でできるエクササイズとトレーニングを指導してもらえるようになった。ひとりでできるトレーニングは、本当はたくさんある。けれど、Zoomを通してたくさんの人と一緒に練習できる時間があるのは、とても心強かった。

さらには、カナダ・トロントにいらっしゃるシステママスター、ヴラディミア・ヴァシリエフ師によるZoomクラスが始まった。日本とは−13時間の時差があるものの、マスターのクラスを受けられるようになった。

今まで使っていなかった、iphoneの機能「世界時計」に「カナダ・トロンロ」の設定をする日が来るとは夢にも思っていなかった。

ヴラディミアのセミナーは、トレーニング形式。参加するセミナーよっては世界中の人がログインしている。日本語の通訳は入っていないセミナーもあるので、ヒアリングだけでも必死。それでも、画面を通して動きかたを観察し、学びとれることが多い。

「歩きかたの練習」という回もあった。みんな、普通に歩けるでしょ、と思うかも知れない。けれど、歩きかたひとつで、その人の精神状態までもわかってしまう。セミナーが終わると、毎回汗をかいて、くったりしている。でもその疲れすら、ここちよい。

また、創始者のミカエル・リャブコ師とミカエルの息子ダニール・リャブコ師の質問による対話形式のセミナーも6月から始まったばかりだ。こちらはロシア・モスクワとZoomでつながっている。

ミカエルは特別に難しいことを言うわけではない。

たとえば「自分は何ができるか、何ができないかを知っておくことが大切だ」と説く。それは、表面的に考えれば、当たり前のように聞こえる。けれど、深く考えていけば難しいことでもある。この話の続きとして「たとえば、」と語ってくださったことは、戦闘時における身体の使い方で一つ間違えれば命を落としてしまうような例だった。

システマという武術のバックグラウンドにどのようなものがあるかをわかっておかないと、「そんなの、当たり前でしょ」と素通りしてしまいそうになる言葉も多い。でも、その言葉の裏側には、今の日本で暮らしている、少なくともわたしには理解を超えた戦争の歴史が連なっている。

また、いまの状況に言えることとして「起きていないことを怖がりすぎる必要はない。起きたことに対処すればよい」とも話してくれていた。

これは、何にも考えなしに動けばいいということじゃない。ただ、恐怖を自分で作り上げすぎてはいけないし、それに囚われてすぎてもいけないということ。きちんと見極めるのが大切なのだ。どちらかといえばわたしは心配性なので、恐怖に囚われやすいかも知れないなと思い、ミカエルの言葉を胸に刻んだ。

わたしがシステマを学んでよかったなと思えることのひとつに、システマ創始者であるミカエル・リャブコの考え方があるのだと思う。

トレーニングをやり込んで、プッシュアップとスクワット、レッグレイズ、シットアップ各300回ずつ、宿題な! みたいなことを笑いながら言ってくる。けれど、それには「汝自身を知る」という前提もある。

回数をこなすことが上達につながるのは、トレーニングだけに限ったことではない。語学の勉強にしても、イメージしている絵を描けるようになるのも回数をこなす必要がある。

ただ、がむしゃらに回数をこなす前に、「この(四つの)トレーニングで苦手と思うのはどれか?」を知ることも重要なのだと思う。なぜ苦手なのか? 苦手の要因がきっとあるはずだ。それを突き詰めて考えてみる。ただし考えすぎると、身体は強張って、動かなくなるので注意しながら。身体を動かして苦手を克服する。克服できなくっても、「苦手だな」と思わなくなるように工夫する。

考えることと、身体を動かすこと。それを何度も繰り返す。その両方を天秤にかけて、うまく釣り合いが取れるようになれば、自分を知ることに近づくのだろう。もちろん、これはシステマの上達だけに限った話じゃない。仕事や勉強、料理やゲームにしても当てはめて考えることができる。

自分を知るということは、強みを生かすことでもあるし、弱点を見つめることでもある。システマは生きのびる知恵みたいなものも、教えてくれる。

小学生のわたしに、「四十歳くらいになれば、身体を動かすのが楽しいと思える武術と出会えるよ。トロントの時差を気にしたり、モスクワに学びにいきたいなと思うくらいにね」とこっそり教えてあげたい。幼いわたしには想像できなくて、信じてはくれないかも知れないけど。









最後まで読んでいただきまして、ありがとうござます。 スキやフォローしてくださると、とてもうれしいです。