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最長片道切符で行く迂路迂路西遊記 第24日目

前回のお話は以下URLから。


第24日目(2007年8月31日)

(大阪ー)新下関ー大分ー宮崎ー都城

24.1 後編

▲ 深夜の大阪駅

 自宅を0時過ぎに出て、最終電車を乗り継いで大阪駅まで行く。改札口で乗車変更を申し出たが、みどりの窓口で買い直してくれというのでそれに従う。大阪駅のみどりの窓口で新下関までの乗車券を買って改札を通る。深夜の大阪駅は、近距離を結ぶ電車は既に最終が行ってしまった後で、物静かであった。何度も大阪駅を利用しているが、客のいない大阪駅は初めてであった。

 8月19日に最長片道切符の旅を中断してから、所用を済ませて、今日、8月31日にようやく再開することとなった。切符の有効期間は、残り、あと5日である。5日で残す九州を回らねばならない。

 僕は、階段の仕切りにもたれかけて、列車を待った。夜はすっかり秋めいて涼しい。つい半月前までは「地獄の夏」と形容していたが、この時間、そんな様子はなかった。

▲ 寝台特急はやぶさ・富士号

 1時06分、4番線に直流専用のEF66形電気機関車を先頭に12両の青い寝台専用客車を牽いて到着した。寝台特急富士・はやぶさ号である。僕は富士号を利用するので、8号車のシングルデラックスに乗り込んだ。故・宮脇俊三さんが例えた「独房」であり、枕木と平行に配置されたベッドと洗面台を兼ねた小さなデスクだけの簡素な佇まいだ。トワイライトエクスプレスのロイヤルとは格がひとつ異なるにしても、こうも格差があるのかと思う。そのシングルデラックスに乗り込むと、すぐに列車は出発した。そして、車掌さんがやってきて車内改札を済ませる。大分まで乗り通すので、乗車券が大阪市内から新下関までと最長片道切符の併用だから、わかってくれるかと心配だったが、初老の車掌さんは「はいはい」と手際よく料金券にスタンプを押して去っていった。

▲シングルデラックス室内

 尼崎を通過して、真夜中の東海道本線を西へと進む。一日の営業を終えた駅を通過していく様は、遠方ではよくその車窓を拝んだものだが、地元近くでは初めてであった。このついでに明石海峡大橋も臨むつもりでいたが、睡魔には敵わず、部屋の灯りを消して就寝する。

 目が覚めた。壁に手を這わせて室内灯のボタンを探す。時計を見ると、7時過ぎであった。時刻表を見て、列車が徳山を出て防府へ向かっていることを知った。まだ新下関には着いていないので、最長片道切符の本編には入っていない。眠っている間に本編に突入となると、何かその間をすっ飛ばしたようでスッキリしないから、この時間に目が覚めて良かったと思う。カーテンを開けると、空は薄曇りであった。

 新下関から最長片道切符の旅へと戻る。理想としてはここで降りて、後続の列車に乗って改めてスタートを切るべきなのだろうが、A寝台の個室利用を短時間で見切る勇気を、僕は持ち合わせてはいなかった。周りに人家や工場が目立つようになってきた。JR西日本の下関車両センターである。高架線を上がり、大きく右へとカーブする。車内放送が、下関到着を告げる。僕は、カメラを持ってデッキへと向かった。

▲ 下関に到着

 下関駅は、本州最西端に位置する駅である。山陽本線は、ここからまだ九州の門司駅まで伸びるが、門司駅の手前で直流電気と交流電気が切り替わるから、直流専用のEF66形から、交直両用のEF81形へ交換する。その交換作業は下関では名物となっており、僕の他にもカメラを構えた人たちがホームへ集まっていた。

▲ 機関車の付け替え

 下関駅の停車時間は、6分である。8時38分、機関車の付け替えを終えた寝台特急富士・はやぶさ号は、下関駅を出発した。下関の街を見下ろすようにゆっくりと進んでいく。建物の影に隠れて海はよく見えないが、その影の向こうには小高い山が見える。関門海峡の対岸に位置する山であり、九州となる。チラリと住宅街をかすめて列車は勾配を下っていく。本州に別れを告げるように、車窓が闇に包まれた。北海道から本州へ渡るときと、同じような感覚である。3分して、再び車窓に光が戻った。いよいよ九州に上陸である。

 門司駅でも機関車が付け替えられる。しかも、ここで熊本行のはやぶさ号と、大分行の富士号とに切り離されるので、付けたり放したりと忙しい。例によって、僕は先頭まで行き、カメラを構える。

▲ まずははやぶさ号に機関車を付ける

 まずは、熊本行のはやぶさ号を牽引するED76形交流専用電気機関車を連結する。赤い電気機関車は交流電気専用を示している。九州内の多くの電化路線が交流専用だから、赤い電気機関車は九州のイメージが強い。

▲ はやぶさ号が先発する

 僕は、すかさずはやぶさ号と富士号の連結部分へ向かった。既に切り離し作業は終わっており、僕は富士号の貫通扉の前に立って、はやぶさ号の発車を見送った。お父さんと一緒に旅行している小学生の少年が手を振ってくれた。

▲ ED76形電気機関車を連結する

 はやぶさ号が出発してしばらくすると、やはり赤いED76形電気機関車がやってきて、連結作業を終えた。8時46分に門司に到着し24分も停車するのは、この一連の作業があるためであり、特急列車にもかかわらず、のんびりとしている。昭和の頃、寝台特急が最盛期の頃は、はやぶさ号も富士号も単独で運行されていたから、門司での停車時間はせいぜい5分程度であった。そう考えると、随分と凋落したと思うし、世間の潮流に乗りきれていない。

▲ 門司を出発する

 JR九州特有の甲高い女性の駅放送が、富士の発車を知らせた。9時10分、富士号は6両編成と短くなって門司を出た。すぐに小倉に到着した。北九州市の代表駅らしく、近代的で立派な駅だ。そこへ一世代くらい遅れた列車が紛れ込んだようで、どこか浮いている感じがする。

 西小倉駅を通過して、日豊本線に入った。部屋から通路へ出て右の車窓に映る小倉工場を眺める。特急リレーつばめに使用されるガンメタリックの車両が止まっていた。

 ホッとしたのか、僕は再びベッドで横になった。見上げると、窓には空が見える。薄曇が取れたようで、夏が戻ってきたような感じだった。

▲ 豊後水道に船が見える

 大分県国東半島の基部を横切って、南へ抜ける。別府湾に沿うようにして、ぐるっと回り込む。温泉地で有名な別府に到着。低いビル群が建ち並ぶ地方都市である。そこを出ると、ようやく青々とした海が、連続して続く区間を行く。沖には白い船が別府へ向かっているのが見えた。

 11時05分、寝台特急富士号は、静かに終着駅、大分に到着した。降りる乗客もまばらで、決して重宝されているとは言えない利用状況であった。

24.2 日豊本線をさらに南下する

 大分駅に到着後、15分くらいは富士号の写真などを撮った。そのあと、改札を出てみどりの窓口へ行き、今後使用するつもりの切符などを買っておく。それでも時間はたっぷりあるので、大分駅の駅前を歩くが、1時間という微妙な時間なので、喫茶店へ入って涼むことにした。

 駅弁を購入して改札を抜ける。地下階段を通って、3番線へ向かう。

▲ 特急にちりん13号

 大分駅からは、13時15分発の宮崎空港行特急にちりん13号に乗る。特急にちりん号は、福岡と宮崎、鹿児島を結ぶ特急として発展してきた。近年、一部を除いて別府と宮崎とを結ぶローカル特急となってしまった。かつては特急有明号、かもめ号と並んで九州を代表する列車で、日豊本線の女王と謳われたこともあったが、近年の凋落ぶりには目を覆いたくなるばかりだ。

▲ 大分を出発する

 1号車のグリーン車で、久々の最前列席である。一番前の座席に座るのはいつ以来だったかと記憶の紐を辿っていくと、金沢から福井まで乗車した雷鳥以来であった。グリーン車内は僕一人だけで、貸切のようだ。

▲ 豊後じゃこめし

 早速、駅弁を開ける。豊後じゃこ飯で、じゃこの混ぜご飯におかずが付いている質素な弁当だが、旨い。大きいサイズのもあったので、そちらにすれば良かったと思ったくらいである。

▲ 宗太郎駅

 佐伯駅を出ると、ここからが日豊本線の最閑散区間となる。中でも宗太郎駅という山中にある小駅は、秘境のムードが漂う。ここを越えてしまうと、宮崎県に入る。宮崎平野の北端に位置する延岡に到着する。駅の西側には運行が休止されたままの高千穂鉄道の車両が所在なさげに留置されている。

 立派な高架駅となった日向市を出てしばらくすると、ここからは、日向灘に沿ってほぼ真南に直進する。とは言っても、海に面して線路は敷設されていないから、海自体を眺められるのは、木々が途切れる時の隙間からや、川を渡るときくらいのもので、少し物足りない気がする。右側から伸びてきた高架線を潜って、その高架線と並走して行く。これは、かつて使用されたリニアモーターカーの実験線であり、今の山梨へ移るまでは宮崎で実験していたのである。

 高鍋、佐土原と小都市を通って、列車は16時17分、宮崎に到着した。僕は、ここで下車をした。宮崎駅は面白い構造をしている。ホームが2面あり線路が4線ある高架駅だが、改札口がホームごとに設けられている。例えば、主に鹿児島方面への列車が発着する3番・4番ホームから階段を降りると、そこに改札口がある。一方、1番・2番ホームも同様に階段下すぐに改札口がある。ところが、両者の改札口は通路を挟んでそれぞれにあるので、それぞれのホームから他方のホームへは一度改札口を出なければ行くことはできない。このような形態をしているのは、他に帯広駅がある。

24.3 今日は、特急列車だけに乗る日であった

 宮崎駅のコインロッカーに荷物を預け、カメラを持って街歩きに出た。宮崎は近年、知事が変わって東京や大阪へ宮崎を売り込んでいるという。よって、宮崎をさらに巷間に知れ渡らせることとなったわけである。県庁への観光訪問も急増し、知事の等身大パネルまで用意されるくらいに話題になっている。ご多分に漏れず、僕も県庁を訪ねてみようと思う。

 しかし、その前に大淀川まで行って、列車の撮影をすることにした。凡その見当を付けて向かうことにするが、宮崎の繁華街も見て歩きたいと思ったので、少し遠回りしていくことにした。

▲ ソテツ

 百貨店である山形屋の交差点を左折すると、子どもの頃に見たソテツの街路樹が立ち並ぶ国道へ出た。橘通と呼ばれる宮崎の目抜き通りである。片側3車線もの幅の広い道路で、その中央に背の高い、まるでタワーのようなソテツが立ち並ぶ。両側には商店が建ち並び、賑やかである。「ああ、昔に本で見たのはこれだ」と思わず口に出した。

 そのまま橘通を南下すると、少し坂を上る。大淀川を渡る橘橋に繋ぐ勾配であり、大淀川の両岸には高い堤防があるためだ。僕は、橘橋を渡らずに、そこをさらに左折して大淀川の堤防を歩く。川面を見ると、時折、何か白いものがピシャッと音を立てて、水面を揺らしている。誰かが石を投げて水切りでもしているのかと思ったが、そうではないようである。しばらく見ていると、どうやら魚であり、飛び跳ねているのだった。

▲ 大淀川を渡る列車

 JR日豊本線の大淀川鉄橋の傍へ着いた。単線で長く一直線に伸びる橋で、転落防止用の側壁がないので編成が丸々見渡せる。まもなく、緑色の車体をした鹿児島中央行のきりしま13号が鉄橋を渡っていった。変わって、南宮崎から延岡行の普通列車がやってきた。それらを撮影していると、あっという間に時間が経ってしまった。783系の特急ひゅうが2号を最後にして、僕は宮崎県庁へと向かった。

▲ 宮崎県庁

 夕方になって涼しくなったか、空には薄い雲が一面に広がっていた。宮崎県庁はいかにも権勢の中枢を思わせるような重厚な造りの建物であった。時間の都合で訪問はしなかったが、その近所にある物産館で買い物をした。

 タクシーで駅まで戻るとき、運転手さんと話をした。聞けば、観光客はやはり増えているという。東国原効果なのだそうだ。運転手さんには「また遊びに来て」と言われ、僕は約束をして車を降りた。

▲ 宮崎駅

 駅で夕食用にと特上椎茸めしという駅弁を買った。それを持ってみどりの窓口へ行き、この後乗車する特急きりしま15号の特急券・グリーン券を買う。それを持って改札を抜けようとするが、コインロッカーに荷物を預けていることを思い出して、急いで取りに行った。

▲ 特急きりしま15号

 18時58分発の鹿児島中央行特急きりしま15号は、レッドエクスプレスと呼ばれる真っ赤に塗られた485系電車であった。先頭車は半室だけがグリーン車で、僕以外には中年の男性が乗っているだけであった。大淀川橋梁を渡る。僕が撮影した場所は既に薄暗くなっていた。

 南宮崎を出ると、途端に暗くなってきた。この辺りは、山の中を行くので車窓を拝めなくとも良いだろうと思っていたが、いざその場所を通ると車窓を見てみたくなった。窓ガラスに手を当てて、車内の光を遮って覗く。しかし、やはりよくわからなかった。

 都城には19時46分に到着した。最長片道切符の経路ではここから吉都線へと乗り継ぐことになるが、きょうはここで一泊することにした。駅を出て少し歩いたところにあるホテルアルファーワン都城へ投宿した。部屋に着くなり、宮崎駅で買っておいた特上椎茸めしを開ける。

▲ 特上椎茸めし

 特上椎茸めしは、お重になっていた。椎茸ご飯とおかずが詰められており、夕食としては申し分がなかった。とても旨かった。

 明日は、吉都線の始発列車に乗るつもりでいるから、早く寝ることにした。切符の有効期間は今日を除けば後4日となった。

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