いきなり
何の前触れもなく、突然コメントを求められたり
急にスピーチをお願いされたり
ステーキだったり
何のことかというと
「いきなり」
のことです。
由来は「行き」と「成り」で本来は成り行き任せだったのが転じて「突然」の意味となったものです。
この「いきなり」=「行成」ですが、漢字だけを見ると書家である私からしてみれば
「藤原行成」
を思い出すのです。
藤原行成とは平安中期の公卿(今でいう所の高官ですね。)で、書家としても有名で「三蹟」の一人です。
※三蹟・・・小野道風・藤原佐理・藤原行成
のちに世尊時流となる流派の祖でもあります。
それはそれは整った和様(日本風)の書を書かれていて唐様(中国風)と比べて柔らかさ、上品さが漂う書風です。
世尊時流はその後も公家の中で公式書として続くのですが、世尊寺家の系列において藤原行成の子孫である三代目当主 藤原伊房(これふさ)が当時の中国北方民族である遼と密貿易をしたことが発覚してそれ以降、世尊寺家は公卿となり得るような要職にはなかなかつけず、失脚していくこととなります。
それでも伝統的な書を受け継ぐ家系として世尊寺家は平安から鎌倉、室町、戦国時代へと受け継がれ、第十七代当主 世尊寺行季(ゆきすえ)まで続きましたが、跡継ぎ不在のためお家が断絶してしまい、世尊時流も途絶えてしまいました。
その後、世尊時流の衰退を惜しんで当時の後奈良天皇が世尊時流の筆頭門人(弟子)格でありました持明院家に持明院流として和様の書を繋いでいくこととなります。
持明院流はその後の江戸幕府における公式書体となっていきます。
さて、「いきなり」から和様の書の流れになってしまいましたがここ最近特に良いなと思うのがこの
「行き成り」
です。
決められた通りではなく
計画通りではなく
ご縁や人との繋がりといったところから物事が進んでいくのが生きている中で心地よいと感じることが会社員でいる頃よりもとてつもなく強く感じることができるようになりました。
ただし、
「成り行き」
は、ただなすがままに第三者的に傍観している意味合いが強いのに対して
「行き成り」
は、それ自体が想定以外に起こりうる突発的なことであり
その突然に起こることを受け止めることがポイントです。
そして、とりあえず
「行動して成り行きをみる」
個人的には「いきなり」は性分にあっているように思います。
少し先の未来さえわからないわけですから
わからない未来においてその行く末を楽しめるように
「行き成り」
を受け止める。
良いなと思えばすぐにアクションする。
「いきなり」ウェルカム。
最近ステーキ食べてないので「いきなり」ステーキ食べに行こう。
(と考えている時点でいきなりではない。。。)
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