類型化される授業論と教師論

 方法か、内容か。そういった大雑把で恣意的な二分法も有効な時は有効なんですけども、あくまで授業の一側面だったり、教師像の一側面だったりでしかないので運用が難しいですね。

 そういうわけで、私たちが毎日やっている、年間1000時間の授業とは一体どんな要素から成り立っているのかということをむにゃむにゃと考えていきます。いつもの通り、なんの参考文献も引用資料もないままに始まるため、ここにあるのは私の経験則以下のものばかりですが。

 先のポストで述べられているのは、「まずい授業」を大きく二つに分けて考えた場合であろうと考えられます。

 具体例としてこのポストなわけですが、極端すぎんか……?
 まあ、「言っていることはすごくいいのに、児童生徒が話を聞いていない」というのは明確に「まずい授業」ですし、これは授業の方法に大きな落ち度があると考えられます。
 「児童生徒はノっているのに先生の言うことはなんかズレてる」というのは、これまた教師の学習内容理解/分析/解釈が落とし穴にハマっている状態だろうと言えます。
 授業として内容と方法の平衡点が取れておらず、結果として「まずい授業」になってしまっているわけです。とまあ、ここまでいけば最初のポストで述べられている「『内容の軸』と『方法の軸』両方持ってた方がいい」を肯定することができるわけですが、ただいくらなんでもここまで極端な先生おるんか? 仮にいたとして、それを年間数百時間とかやり続けるんか? という疑問は残り続けます。あえてこのような極端を言って耳目を集めようとしているのではないか、と言うゲスい勘ぐりも出てしまうってもんですよ。

 あ、結局これが言いたかったんすね。
 一連のポスト群の最終に何を言おうとしていたのか。内容/方法に偏った教師は現場から離れていって当然、とでも言いたげです。戻ってきて欲しいと思っているわけでもなさそうであり、そういった教師は現場から姿を消していっても自然淘汰の結果である、そんな印象も受けます。

 こういった大雑把な二分法は「AであればBになる、だからCである」という大雑把な三段論法に回収されていき、類型化されていきます。このような類型化された論がここ最近はウケるのでしょうけど、それにしたって大雑把すぎてそう易々と受け入れられるものではありません。一連のポスト群に感じた違和感の正体は結局のところ、「過度な類型化」にあったのかなと思います。

 改めて、「授業」や「授業をすること」、もっと言うと「授業を計画すること」「実際に運営すること」「終わった後に考えること」という授業にまつわるひとかたまりのあれやこれやは、そんなに単純な容貌をしていないのだと感じます。
 多分私はまだ、このことに関して何か言いたいのだろうなと思います。