子どもが本を読むために

 特段,たくさん読書をしているわけではないのだが,自前の絵本や子ども向けの書籍はざっと数えて300冊。自宅にも同じくらい趣味や思いつきで買った本達,あるいは人からもらった本達が鎮座している。そういうわけで読書についての話をされることは多い。「子どもが本を読まなくて……。何かいい本や方法はありますか」と。

 昔々,あるところにマエダという青年がおりました。その青年は読み聞かせや読書指導にやたらと入れ込んでおり,日々絵本を買いあさってばかりいました。ある日,読み聞かせや読書指導の取組を人前で発表する機会をもらうことになりました。マエダは困ってしまいました。マエダが話せることなんて「自分の人生さえ変えてしまうような,そんな本に出会うことが必要ですよ」くらいしかなかったのです。でもそれではダメだと考え,ない頭を捻りに捻って考えました。どうにかこうにか形にしたその話は,結局「物的,場所的,人的な環境を整えることが大切です」という,道を歩けばすぐに拾える,理論とも呼べないような代物になりました。でもそれを話すしかありません。こうして,マエダはそれなりに形になった「環境整備」についてを話し,まずまず褒めてもらうことができました。嬉しいには嬉しいのですが,本当にそれで良かったのかは,誰にもわかりません。マエダは今も,北海道のどこかでチマチマと文章を書いたり本を読んだりしているそうです。

 とまあ,昔話をしてみたけどもだよ。子どもを読書に向かわせるための物的,場所的,人的環境整備というのは当たり前すぎる。何ならほとんどの人はそんなことよりも物的環境を整えるための会心の一撃,場所的環境をうまく作るたった一つの冴えたやり方,人的環境整備におけるクリティカルでイノヴェーティブなソリューション,を求めているんだろうなと思うから。でもそんなの,自分の頭と目と手と足で探っていくしかないじゃないか。「子どものために」と躍起になるなら,私:子どもは「1:99」とか,それよりもっとすごい比率になってくる。私の話を長々と聞いている場合じゃない。私が話せるのはそれくらいなんだから。

 あと何か,付け加えるとするのなら。自分で選ばせる。選びたくなったら,選んだら,その全てを許容する。それくらいじゃないだろうか。
 お子さんがいる同僚と話した時に提案したのがこのことだ。大きな書店に連れていき「ここにある本,なんでも1冊,買っちゃるから選んでおいで」と宣言する。持ってきたものがドストエフスキーだろうが漢字辞典だろうが,雑誌だろうがラノベだろうが,買う。その本を家に持ち帰ってパラパラとページをめくり「やっぱ難しいから読むのや〜めた」となったっていい。「そっか,今の君にはまだ合わなかったかな」でいい。翌月でも翌週でも,また書店に連れて行って同じように宣言する(金銭的な話はスルーしている。意図的に)。それの繰り返し。自宅に潤沢に本があるのなら,それを全てオープンにする。
 子どもが何の本を手に取っても許容する。「あなたには難しい,まだ早い」とか「これは大人が読む本だから(エロ本とかはそうだけど)」とかは禁句で,子どもが選び取ったというその事実だけを尊重するということだ。「なんだか気になって手に取ったんだ」という子どもの心の動きを「あなたにはまだ早い」という根拠の薄い感情で否定することは「あなたが読むべき本は別にある」を通り越して「あなたが読むべき本はこの世に存在しない」まで一気に飛躍しかねない。より良いものを選ばせようとする過程が阻害要因として猛威を振るう,というのは,何もこのことに限らないのだから。

 本を選ぶ,選び取る。読書感想文コンクールの課題図書とかじゃない。本という広大な砂漠の砂。砂たち。その中からきらりと光る一粒をすくい上げる。それがどれほどに素晴らしく尊く希望に満ちた行為であるかを「もっと子どもに読書させたい」と考える大人が意識する必要がある。そういうお説教くさい話でシメるのもなんだけど。昔々アホみたいに絵本を買いあさるだけだった青年マエダは,今は以上のようなことを考えている,という話です。