所見が書けて一人前、みたいなとこある

 一人の教師が“一人前”になるにはどんな条件があるのかを考えますと、授業がとか、学級経営がとか、児童生徒への接し方がとか、一言で言おうとするとかなり難しく、要は多面的であったり、多角的であったりする視点で見ていく必要が出てきます。そして、見る人によって、“一人前”と判断する基準/規準はバラバラです。バラバラになってしまわざるを得ないのです。それは、見る人たち(同僚の教師たち、管理職たち、保護者たち、あるいは児童生徒たち)の人生を、生き方を反映しているから。
 そうして結局のところ、“一人前の教師が具えるべき力量(と仮定されるもの)”は、ぼんやりとした輪郭が周縁を飲み込んでいくような曖昧な境界をもった、雲のような姿をもつことになります。雲の中にあるだろう核になる部分について、確定的なことはなかなか言い切ることができません。それは往々にして“理想論”として過度に軽んじられたり、“綺麗事”として不当に唾棄されたりすることもあります。
 明確なことを言い切れない事象の多い仕事ではありますが、ふと思い浮かぶのが、「通知表の所見を書けるようになったら一人前」という一つの仮説です。

 年度末が迫っていますので、職員室はそろそろ“通知表モード”です。学校によっては、授業を午前中だけに設定して、午後を通知表作成、評定業務に当てることもあります。予め午後の授業を取りやめて行うわけですから、時間がかかる業務なのです。では何に時間がかかっているのか。「所見」と呼ばれる、児童生徒一人ひとりへの評定の文章をしたためることに、です。
 鉄板ネタのように扱われる、「もう少し落ち着きがあるといいです。」のような直裁的な文言は、かなり昔から全く見かけなくなりました。通知表という書類の性格上ふさわしくない、と判断されたわけですが、「別にこういう書き方でもいいんじゃね。」とされていた時代があったということにはすでに隔世の感を禁じ得ません。今やったらバチボコに怒られそう。
 学期末や年度末に、児童生徒が1年間で成長したこと、できるようになったこと、きらりと光る一面を綴り、学期末や年度末に手渡す。言ってしまえばそれだけのことなのですが、私はどうしてもここに儀式めいた厳格で折目正しい何かを見出しています。それによって、学期/年度末に向けて結構な時間を費やしながらがんばって所見を書き書きしております。

 そういうわけで、“所見を綴ること”と“教師として一人前になること”が緩やかに接続されていきます。多角/多面的に、なおかつ定点的に対象を観察していくことと、それを外部出力すること、とりわけ言語表現を伴って表出していくこと。
 児童生徒が受け取る通知表はそういった営為の結果であり、また私たち教師も周囲から同様の営為に基づいた/則った評価によって“一人前”として見られていくわけです。深淵を覗くとき、じゃないですけども。
 外部からの目と、そしてそこに“自分自身からのまなざし”が加わります。

 所見を綴る過程では、自分の教育/指導/関わり方の結果を、多角/多面的に見返していく行為を要求されます。これは「教師の関わり方」と「児童生徒の成長」をやや強めに接続した考え方で、いきすぎると結構しんどいんですが、まあそういうことです。所見を綴るのは結果として自分自身を評価することと同義になっていくのです。自分が書いた所見は鏡である、ということ。そうやって自分自身を対象とした省察を繰り返していくことで、“ぼんやりとした輪郭が周縁を飲み込んでいくような曖昧な境界をもった、雲のような姿”をした一人前の教師に近づいていくのでしょう。きっと。