かんざしの世界に足を踏み入れた

東京は、一駅ごとに街の顔が変わる。ご存知の通り、秋葉原が電気製品とアニメとメイドの街なら、その隣にある御徒町は、ジュエリーとものづくりの街である。歩いて20分とかからない距離なのに、こうも街の性格が出るのは面白い。

そんな秋葉原と御徒町の間にある「2k540」。「ニーケーゴーヨンマル」と読む。山手線秋葉原駅から御徒町駅へ向かう線路の高架下にある、ものづくりをコンセプトとした道だ。

以前からこの道の存在は知っていたが、後に用事を控えていることが多く、入って中をじっくり見てみたことはなかった。しかし今日は予定が空いていたので、何の気なしに御徒町を歩いてみることにした。

ぶっちゃけ、JRの高架下の開発は好みでないことが多い。無機質で、整備されすぎているような印象を受けるからだ。

だが御徒町の2k540は、一つひとつのものづくりの店が放つパワーが温かく、高架下開発特有の素っ気なさをかき消しているように感じた。この場所に好感を覚えたわたしは、ふらりと店に入ってみることにした。

革の財布屋は敷居が高い。帽子屋も覗いてみたが、他のお客様がいたため、落ち着いて見ることができなかった。そんな中でなぜだか吸い寄せられたのが、「匠の箱」という店だった。

店内には様々な伝統工芸品があった。へぇすごい、どれも美しい。チープな傘しか持っていないので、傘でも買おうと手に取ってみたら、びっくりするほど高かった。もちろん破産したくないので買わない。

店内の中央には、大きくかんざしの展示スペースがあった。かんざしをつけたことはない。そもそもつけ方を知らない。そんな知識ゼロの状態でぼけっとかんざしを眺めていたら、ロマンスグレーの男性が声をかけてくれた。「このかんざし、木の玉を包んでいるんですよ」

わたしは驚いた。切れ目なんてわからないほどに丁寧に包まれていたからだ。機械でやったかのように正確で、だけど人の手が包んだことが伝わる温もりがあった。少しかんざしに興味がわいた。

「かんざしをつけたことがないんです、袴にもあいますか?」とわたしは尋ねてみた。すると男性は、「かんざしって着物に合わせるものだと思われる方が多いんですけど、かんざしを買われる方は、実は普段着に合わせていることが多いんですよ」と言った。「デニムなんかにも合わせやすいように、藍染のかんざしもつくったんです」

男性は、ほら、とかんざしを見せてくれた。コットンに染み込ませた藍の色が気品の良さを演出する一方で、普段使いもできそうな親しみやすさもあった。かんざし素敵じゃん、わたしは初めてそう思った。

「お時間あったら、もしよろしければつけてみます?」男性はマネキンとわたしの髪の両方で、かんざしをつけてくれた。棒一本で髪の毛がどう留まるのか不安だったが、落ちる気配がないほどしっかりと纏まった。量が多いと評されるわたしの髪も、細めのかんざしで留められた。

男性は、色々なかんざしを見せてくれた。揺れる飾りのついた和紙のかんざし。飴細工のように繊細な色使いに、繊維が浮き出たデザインだった。あとはシルクにラメを散らしたかんざし。少しばかり高級だったが、普段使いできそうなシンプルさが良かった。

削り出しの木のかんざしは9000円ほどしたが、ひとつひとつ表情が違って、非常に面白かった。同じ木から削り出していても、黒の部分だけを集めたものと、茶色の部分を集めたものとでは、まったく違うかんざしに仕上がるのだ。太めで存在感のある削り出しのかんざしは、髪に差し込む時に、キュッキュッと音を立てた。「この音が鳴るように意識して作ったんですよ」と男性は言った。

削っているとつい楽しくなっちゃってね、と男性は子どものような顔で笑った。「あともう少し、もう少し、とか思っていると楽しくなりすぎちゃって、腱鞘炎になっちゃった」と黒のサポーターの手首を見せてくれた。「それに妻がねぇ、自分の髪の長さはこれくらいだからとかなんとか言って、かんざしの一部分を削っちゃったんですよ、わがままだなぁってね」あまりにも面白くて、温かくて、思わず笑ってしまった。

そして、麻に茜を染み込ませたかんざし。わたしの大好きなピンク色だった。麻で包まれた木の玉と、小さな花の飾りが一緒になった可憐なデザイン。自分では思ったことが一度もないのだが、ピンクがよく似合うと女性のスタッフに言われて、意味がわからないほど嬉しかった。嬉しすぎて、その言葉でかんざしの世界に足を踏み入れることを決めた。コットンのと麻のとふたつあったけれど、より落ち着いたデザインの麻のものの方が、長く楽しめそうな気がした。

4000円。わたしにとって決して安くはないけれど、新しい世界を知れた分も合わせると、ここで投資して正解だと思った。「匠の箱」は週替わりで展示が替わるらしいので、今日かんざしに出会えたことと、その職人さんに出会えたことは本当に幸運だった。店員さんに話しかけられるのは苦手だと以前に書いたが、自分が知らない世界に誘ってくれるようなコミュニケーションは、むしろ積極的にしていきたい。もう会うことがないかもしれないし、あの男性にとってはただの顧客のひとりかもしれないけれど、わたしにとっては大きな出会いだったと、静かに確信している。

追記!インスタシェアです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?