「全米が泣いた」、予定調和の涙

「全米が泣いた!」「涙なしには読めない」

このようなキャッチフレーズ、いわゆる「絶対泣かせにいくぞフレーズ」が、映画や書籍の広告には散りばめられている。

わたしは感動屋さんなので、大概の作品を見たら感動シーン関係なくべろべろ泣くタイプだ。

しかし、このような「絶対泣かせにいくぞフレーズ」を見ると、わたしはすんっと興醒めになってしまう。

なぜなら、それで涙を流したとしても、その涙は「予定調和の涙」だと思うからである。

まず「絶対泣かせにいくぞフレーズ」がある作品で、実際に泣いた場合を想定してみよう。この場合、わたしは「泣いた」ではなく「泣かされた」という感覚になる。まんまと売り手の戦略に「はまって」しまった自分に気づいてしまい、涙を流しても何となくすっきりしないのである。

では反対に、「絶対泣かせにいくぞフレーズ」がある作品で泣かなかった場合を想定する。この場合には、全然感動もせず泣けなかった自分の感覚はどこか世間とずれているのか?おかしいのか?というモヤつきが残る。わかりやすく言えば、自分の感性を疑ってしまうのである。

このように「絶対泣かせにいくぞフレーズ」がある作品で泣いても泣かなくても、心は浄化されない、という結果になってしまう。わたしを泣かせにいこうと向こうから頑張ってくれているのにも関わらず。何とも皮肉なことだ。「絶対泣かせにいくぞフレーズ」が意味をなしていないのである。

確かに、この作品は感動できる、涙なしには見られないと言って売り出すことは、商業的に正しい。日常生活で泣くことのできない人が、この世にはたくさんいるからだ。

だが、わたしは予定調和の涙を流したくない。上手くは言えないけれど、もっとわたしの心から生まれてくる、オリジナルの感性で泣きたい。全米なんて気にせずにね。





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