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アメリカとJoAnnと母とわたし。旅の始まりは一枚の手紙から。

退職時に会社からもらった100万円。特に物欲がない私はそれを、「会いたい人に会いに行く」ことに使おうと決めた。

日本全国をピックアップしつつ、これまでお世話になった人を頭に浮かべていたら、一人のおばあちゃんを思い出した。名前はJoAnn(ジョーアン)、アメリカ人だ。

高校2年の夏休み、私が8月31日ギリギリまでお世話になったホストファミリー。曖昧な笑顔を浮かべてろくに英語も話せない、話そうとしない私を気にかけてくれ、毎日ゆっくり新聞を読んでくれたり、地域のイベントや教会に連れて行ってくれたりした異国のお母さん。夫のDavidと共に、最終的には私が「ここに住みたい」とハグするまでに良くしてくれた恩人だ。

当時60代後半のご夫婦。私が31歳になったということは、あれから15年。はっきりした歳はわからないが恐らく80代後半。「(失礼ながら)このチャンスを逃したら、二度と会えなくなるかもしれない。」そう思った私は、久しぶりに手紙を書いてみた。

「私のこと、覚えてますか?また会いに行ってもいいですか?」

返事は約1週間後に届いた。懐かしいクセのあるアルファベットが並ぶ封筒を開けるとまさかの言葉。

「次からやりとりはメールにしない?手紙は大変よ。」

86歳になったJoAnnからの元気な文章に吹き出し、すぐに航空券を購入した。たった1ヶ月ちょっとステイした私をしっかり覚えていてくれて、「アメリカに来るならうちにも是非泊まってほしい。車の免許も最後に更新することにしたわ。」とこれ以上ない嬉しい返事をもらった。
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8月にそんなやりとりをして、ロサンゼルスに降り立ったのはその年の10月。少し太ったが杖をついて小さくなった彼女が玄関で満面の笑顔とハグで迎えてくれた。

彼女の家には5日ほど滞在させてもらった。「フリーウェイはもう運転できないから、近所に連れていくね」とマクドナルドや教会、Davidのお墓に連れて行ってもらった。そう、夫のDavidはその前年に病気で亡くなっていた。

私が高校生のとき遊びに来てくれた彼女の孫も、学生結婚してお母さんになっており、商店街の街並みは変わらずとも、時が経ったことを感じる。

夜は連日ボードゲームをし、相変わらずたどたどしい私の英語をしっかり聞いてゆっくり返してくれる。なんとも穏やかで優しい、懐かしい時間。ほんの3ヶ月前まで営業の仕事で毎日22時過ぎに帰宅していた日常が遠い過去のことのように感じられた。

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最後の日の朝、今回の滞在時に撮った写真の中でのベストショットを写真立てに入れてプレゼントした。「また来るね。JoAnnは普段寂しくないの?」と聞くと「何言ってるの。隣に89歳の親友Annが住んでるから毎日ウォーキングしてるのよ。」と笑い、その足でAnnに私を紹介してくれて二人で見送ってくれた。

私の思い出話はここまでだが、実はこの旅にはもうひとつおまけが。

実はこのときの渡米に、私は母を連れて行っていた。理由は、JoAnnと同じ街に住む母の親友ヤスコさんと約20年ぶりの再会を果たしてもらうため。人に旅行をプレゼントしたのは、後にも先にも一度だけある。

双方の離婚や家庭事情により長年連絡を取り合っていなかった二人。私がアメリカへ行くことを話したとき、「そういえばヤスコちゃん、どうしてるかなぁ。」とつぶやいた母に「確か弟さん、福岡で歯科医院やってたよね。電話してみよう!」と繋がりを辿って、ようやくたどり着いたのだ。

着いたそばからお土産を広げて、声にならない声を上げて抱き合う二人。積もり積もった話は1週間の滞在では十分ではなかったらしく、あれから母は毎年アメリカへ行くようになった。

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社会人になり、なんとなく太平洋を越えることが遠い現実になっていたあのとき。何人もの笑顔と嬉し涙を見て、本当に一歩踏み出して良かったと思った。観光地を巡る海外旅行も、もちろんめちゃくちゃ楽しい。でも、会いたい人に会いに行く、というのも素敵な旅のスタイルだな、と発見できたのだ。

あれから7年。母に負けず、私も毎年渡米している。私と海外、私と旅。自分の暮らしから旅が消えたら気力も一緒に吹っ飛んでしまうだろうと思うから、もはやこれは私の一部分なのかもしれない。

最後に、このときの旅でANAの機内誌に載っていた一面を紹介して終わりにしようと思う。いつ見ても、心がワクワクする大好きな誌面。


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