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やさしいさよなら

そういえばなんですが、小説書きました。

↑イメージ図

ほんぺん

 誰も彼を彼だということを知らないまま、西武新宿の人は流れていく。貴と会う約束を取り決めていた康人は、傍から見ると華美な西武新宿の色合いの中でも明らかに浮いた姿で立ち尽くしている。
 よれたロングTシャツの上に羽織ったスカジャン、赤いジャージのズボンにはべっとりと付いた酒とその匂い。真冬だというのにつっかけサンダルと靴下だけの足元。土気色した顔はとてもではないがミュージシャンのそれではない。しいて上げるならば、ギターケースだけが彼をミュージシャンたらしめていると言っても良かった。誰もが嫌悪し、そして誰もが彼を浮浪者として扱うであろう姿のまま。康人は貴が来るその時をぼんやりと待っていた。
 ポケットの中に、3本だけ残っているタバコの箱。電池が64パーセントしかないスマートフォン。長財布に残った6枚の千円札。何をするにも中途半端すぎて仕方なく、とりあえず1本だけタバコを取り出し、火をつけた。流れていく西武新宿の人影を眺めながら、ああすべてを失ったのだろうと思い返していた。
 空を眺める。一本、康人にかかってきた電話からすべてが変わった。それを思い返しながら。

「お金払ってもらってないんですよ……」
 その電話一つで驚いて、それから多くの連絡をもらった。多くのスタジオ代やレンタルした機材……そういったものが一つとして払われていないということ、そして電話を掛けたマネージャーに連絡が通じなかったこと。そこからすべてが狂いだした。入っていたはずの金さえ持ち逃げされてキャンセル料も払えない始末。レコーディングもままならなければメンバーの給料も支払えない。事情を一から説明して被害届けも出して……と様々なことを片付ければ片付けるほど時間はただ過ぎていく。
 サブスクやCDの売り上げで何とか生活するには至ったが、バンドは生きながらにして死に絶えようとしていた。事務所をつぶすことさえ考えた。そんなことならバンドなんてやらなければ良かったとさえ、康人は思った。そうすればこんなことにはならなかったかもしれない。自分のエゴのためだけに始めたバンドだったからこそ、余計に康人はふさぎ込んでしまっていた。幸い、ほかのメンバーたちは様々なバンドのサポートメンバーとして駆り出されていたおかげで、糊口をしのぐことができていたようだが、そこに至るまでのことさえも康人は気を配ることさえできなかった状態だった。
 元々多かった酒の量も気が付くとますます増え、康人は気が付くと路上で眠っていたりライブに遅刻したりと周囲からの評価も落ち込んだ。それは康人でさえも分かっていたことだった。西武新宿の夜はあまりにも空が高すぎた。月はまん丸だった。

「ごめん! 待たせた!」
 ふいに現れた一人の男。そうだった。隆と約束をしていたことを忘れていたな、と康人は酔った頭で思い出す。西武新宿でぼんやりしていたのは理由もなくではなかったことを康人は安堵しそして隆にもぼくは狂わされてギターを握ったんだよな、と思った。だがその一方で思う。自分がしっかりしていればこんなことにはならなかったのに、と。
「だいぶやつれたなお前」
「まあ、話した通りさ」
「しんどかったな」
「疲れたよ」
 流れていく人と車を西武新宿の赤レンガの柱にもたれかかりながら康人はこぼす。それなのに、まだ自分はギターを手放すことをためらっているということも康人は分かっていた。すべては自分のくだらない理由から始めたバンドだというのに。
「でも、お前はまだいいよ」
「何言ってんだ?」
「だってまだ、ギターを持つ理由があるんだろ」
「理由?」
「コユキだよ」
 コユキ。何度と繰り返した康人がギターを手放せない理由。10年も前、少しだけ一緒に暮らした15にも満たない小さな少女。今どこで何をしているのかさえ分からない少女。それだけが康人がまた歌を歌い続けている理由だった。隆と康人しか知らない、数少ない理由。
「あいつが生きている限りお前は歌い続けるよ」
「生きてると思うか? コユキが」
「分からないけどね。なんとなくだけどまだどこかにいる気がするんだよ。なんとなく、だけどね」
「お前の勘は良くも悪くも当たるからなあ」
「そうか?」
「お前、コユキと住んでた時に言ったろう。『お前は初恋より真剣だ』って」
「何度も言うなよそれ、あれ結構自分で言ってて恥ずかしかったんだぞ?」
「そうかな? きっと今でもぼくは初恋より真剣なのかも」
「え?」
「多分今もずっと恋をしてるってことさ。ぼくはそういう奴なんだ」
「だからお前はあの時と何も変わらないんだな」
「そうだね」
 周りが背広やネクタイをつけていく中、康人は一人だけ今でも意地を張っているかのようによれたロンTとくたびれたジャンパー、寝間着のようなパンツ姿で一人立ち尽くしている。あの時と何も変わらないまま。
「じゃあ行こうぜ。おれの奢りでいいから」
「もう飲んでる」
「だろうと思った」
 康人の肩をぽんと叩き、隆は笑う。そのまま歩き始める彼を康人は追いかけた。

 隆は変わったが、中身は変わっていないと思う。本当に昔から優しい男だ。でも、その優しさゆえに変わる事が出来ていた。康人は思い出す。コユキと一緒に住んでいたあのころから……何も変わっていないということに。

「ねえ、康人はギターを弾かないの?」
 あのとき康人はまだ大学生で、まだギターすら握った事がなくて。
「どうして」
「きっと康人は素敵な歌を歌えると思うから」
 思わずハッとして、康人はコユキを見た。あれだけ無邪気な顔が、とてつもなく綺麗で儚げに見えた。夏の熱気とは比較して涼し気な顔をしたコユキ。康人は目で見抜かれた気がした。それでも乾いたように笑った。
「ははっ、多分それは無いよ」
「そうかな」
 コユキはぽつりとこぼすように話した。
「でも、ギターを弾いてみたいっていう気持ちはあるんじゃない?」
 コユキの問いかけに、康人は考え込む。確かに、自分も心のどこかで音楽に興味を持っていた。でも、それを口にするのは恥ずかしくて、言葉にできなかった。ライブハウス、歪ませたような音がスピーカーを通して響き渡り、マイクを通して誰かに魂を預ける様をいつも遠くから眺めている自分を思い出す。あそこまで自分が燃える事が、出来るのだろうか。康人は探りながら言葉を出す。
「ぼくは……」
 それでも言葉を詰まると、コユキが優しく微笑んで声をかけた。
「大丈夫。何か始めるのに遅すぎることはないよ」
 結局ギターを握ったのは、コユキが居なくなってからだった。

「でもさ、お前あの頃からバンド組みたいなんて思ってなかっただろ」
 隆は昔をただ思い出し続けている康人に瓶ビールをそそぐ。
「かもね。なんでギターやらないの、って言われた時はぎょっとしたもん」
「でも、それが俺が夢をあきらめた理由でもあるんだ」
「言ってたね」
「やっぱりお前に俺は勝てないよ」
「どうして」
「もう伝えたい事や伝えたい人が居ないから」
 悲しそうな顔をして、隆は笑う。康人からすれば、よほど隆の方がすごかったのに、それでも隆は康人のほうがすごいと言ってくれる。だから本当に優しいのだな、と感じる。
「俺が何も言わなくても……お前はまたギターを握るよ。分かってる」
「おいおい、決めつけるなよ」
「これも俺の勘だ」
「隆の勘は当たるなあ」
「引き寄せていくんだろ」
 笑いながら康人は目を閉じる。安い居酒屋の店内には流行の曲が鳴らされている。のっぺりとしたエレキギターの音。康人がいつも鳴らすそれとは大違いの音が耳の中を通り抜けていく。一人になったとしても、きっと自分はギターをかき鳴らし続けているのだろうと思うと、何とも虚しく寂しい男だと思う。
 そういえば、いつもどこか寂しそうだねとブッキングしてくれた人に言われたなと康人は思い出す。いつまでも寂しいまま、誰にも理解されないまま。それなのに、自分はそれを開き直って笑うしか無くて。それを言葉にする事も出来なくて。康人は閉じていた目を開ける。ありきたりの居酒屋ありきたりのテーブル、隆は目の前に居て。隆のようになれたらきっと、自分も人並みの幸せを手にしていただろう。けど、ギターを鳴らすことは無かっただろう。あんな汚いライブハウスに根を張る事も無かっただろう。隆のように生きられたら、どれだけよかったのだろう。
 それなのに毎回、隆が話す彼の子どもの話、そして妻の話を聞くたびに、羨ましいと思う。そこに対する憧れを捨てる事が出来なかった。それなのに結局ただズルズルと続けている理由はまだコユキに届けたい物を届けられていないから。そうやって何かを言い訳にしているだけで。そして、コユキがいないと寂しいと感じる自分も変わらなかった。だから結局今苦笑いする。そんな隆が言葉をこぼす。
「でも、羨ましいよお前が」
 一方、隆は康人の純粋さに憧れていた。結婚して家庭を持ったけれど、やっぱり音楽が好きで。でも、悲しい事に隆には才能がなかった。上には上がいて、そこにはさらに上がいて。そこまでの時間を積むことも叶わないまま。彼女ができて結婚して。それから家族となって。そこで諦めなければいけないと思っていた。そんな中でも、康人を見るたびに時々後悔する。そして、康人のような純粋さをどうして持てなかったのだろうと。
「そうかな? ぼくは隆みたいにきっちりと割り切れなかったから」
 その代わり、たくさんの物を失ってきたから。康人はこぼす。
「まあ、割り切ってもお前は駄目だっただろ」
「どうして」
「お前に背広もネクタイも似合わないさ」
「そうかな」
「だってお前、首周りにきゅってされるの嫌いだろ?」
「わかる、嫌い」
「結局そうなる運命で、コユキも分かっていたんだろうな」
「アイツの目は子どもの目だからな」
「お前とよく似てたよ」
「だから引き寄せあったのか」
「かもな」
「だったら……余計に届けないといけないのかもな」
「苦しみは続きますなあ」
「死ね。苦しませる奴全員」
「そう言うなって」
「不幸になればなるほど良いなんて、勝手に決めつけやがって」
 康人はふてくされてビールを飲み干す。ははは、と笑って隆もビールを呷った。編曲で何度も加工された楽曲が終わって、あどけない声がスピーカーから流れてきた。

「でも……お前これからどうするんだ?」
「どうするって何が」
「事務所はほぼつぶれかけ、メンバーに金も払えない……スタジオもレコーディングも出来ないんだろ?」
「そうだなあ」
「お前はそれでいいかもしれないけどさ」
「隆だったらどうする?」
「俺か……」
 隆はビールを口に含むと、康人をじっと見つめた。
「俺だったら……」
「うん」
「俺だったら、まずはもう一度ベースを弾こうと思うよ」
「なんで?」
「お前だから、じゃない?」
 康人は顎に手をやった。珍しいしぐさをするものだ、と隆は思いながら眺める。それと同時にもう彼には答えが出ているんだろう、と思う。
「お前は……コユキに届かせるために」
「ああ」
「じゃあもう答えは出ているんじゃないか?」
 康人が黙り込むと、隆はため息をつく。やっぱり、お前には敵わないよ。
「そう……だね」
「じゃあ、何を悩んだ?」
「ついてくる人が居るかどうか、さ」
「そんな奴お前、求めていたのか?」
 驚いた顔で康人は隆を見た。いると思っていたのかよ、と胸で思いながら隆は苦笑いした。
「お前、本当に馬鹿だよ」
「何が」
「お前は放っておいたって誰かついて来るだろ」
「そうかな」
「そうだろ。そうじゃなかったら、今もギターなんか握ってないさ」
「ははは」
 渇いたように康人は笑って、ジョッキを空にした。
「そういえばさ、俺の嫁さん、子どもが出来たらしいんだよね。女の子だって。名前、何が良いと思う? 俺、全然そういうセンスないんだよ。なあ、康人ならどんな名前がいいと思う?」
 康人は一瞬だけ目を丸くすると、すぐに微笑んだ。やっぱり、隆の様には生きられない。でも、それでいい。
「そんなのお前言ってたじゃないか。盗賊と書いてルフィだろ」
「殺すぞ」
「なんだよ、お前子供にはそういうお洒落な名前つけるって言ってたじゃん」
「10年前だぞそれ。大体ルフィ男だろ」
「確かに」
 はっ、と二人で笑う。
「まあ、でも……お前がそうやって笑えるようになってよかったよ」
「え?」
「お前がずっと暗い顔をしていたからさ」
「まあ、気が付いて何から何まで片付けてみたら時間だけ過ぎていて、何もする気起きなかったしな」
「まあそうだよな」
 一度黙りこくってジョッキを眺めた二人。どうしよう、という空気の中で隆はふっと笑って言葉をこぼす。
「お前が背中に背負っていた物は飾りか?」
「飾り?」
「バカ、ギターだよ」
「ああ……あれね」
 康人の目が泳いでいくのを見て、隆は自分の言葉が間違っていない事を確信する。康人はもう分かっているはずだ。だから、隆は続ける。
「お前の持っている物は世界中に想いを届けられる楽器。そうだろう?」
 康人の泳いでいた目が隆の前で止まった。
「後はお前次第だ」
「そうだな……」
 康人は呟いてから、目の前の隆を見据える。
「ありがとう」
「気にすんな」
「お前に会えて良かった」
「そうか」
 それが居酒屋で交わした言葉の最後だった。

 夜の歌舞伎町を抜けて西武新宿の前へと歩いていく。俺、こっちだからと声をかけようとした隆の言葉を聞くこと無く、康人はその場で立ち止まり、赤いレンガの建物を呆然と見ていた。
「康人、おい! 康人!」
「隆、レコーダー持ってる?」
「え?」
「今、曲を作る」
「え!?」
「え!?」
「いいから早く」
「は?」
「レコーダー!」
「いや、ちょっと待てって」
 康人は振り返って笑顔を見せた後、ギターを出してアンプに繋ぐ。簡単にコードを弾きながら、その場でスラスラと言葉を紡いでいく。その顔は先程迄酒を飲んでいた男とは思えない程、溌溂としていた。だらしなく、紹興酒のシミだけが目立っているが。
「隆、録音しておいてくれない?」
「ああ、いいけど……何の曲?」
「まだ決まってない」
「マジで言ってる?」
「うん」
「はあ……」
 隆はため息をつくとスマホを取り出した。そして、康人に言われた通りに録音を始める。それが初めて、今この場で作られたと思えない程メロディーも歌詞も。すべてが完成していて。次第にギターの音と叫び声のような歌声に周囲が足を止め、人だかりが生まれる。それから康人はこれだけこぼした。
「できた」
 隆は慌ててレコーダーを止める。夜の西武新宿は予想だにしない人だかりができあがっていた。
「これ、どうするつもりなんだ」
「どうするって……届けるよ」
「どうやって」
「どうするかなあ」康人は困ったように頭を掻く。隆はため息をついた。「まあ、後でデータ送って」
「今送るわ!」
 隆は呆れた物言いで送る。スマホが震え、音声データをダウンロードした康人は再生する。聞き終わり、大きくうなずいた。
「よし、これで行こう」
「もうできたのか」
「そうだよ」
 康人が笑う。人だかりと人混みが絶えない。何かを康人に期待したままだ。マイクすらないまま、誰からの許可も得ないまま康人は歌い始める。

「アイツ……何やってんだ?」
「さあ……でも、なんか良いな」
「ああ」
「俺、なんか感動してきた」
「俺、泣きそうなんだけど」
「わかる、もう泣くわ」
 康人の歌声が響き渡る西武新宿の駅前、更に人だかりが生まれる。遠くからあれ、ヤストじゃね? という声も出て、更に人の輪が大きく広がっていく。康人の横で呆然と立ち尽くした隆は、そのまま一人大きくなっていく人の輪にただただ驚いたままで。康人はどことも分からない虚空を眺めたまま、歌い続ける。そして、瞬間的に見つけた顔があった。その顔はあの時と同じようにあどけなく、そして子供のような眼をしていて。言葉がこぼれそうになる。コユキ? そうこぼしそうになった。だが、すぐ横に警察官がいたことも忘れてはいけない。
「君たちこんなところでなにやってるの!」
「あ」
 二人は同時に声を出した。結局その場で警察に酷くお叱りを受け、今後はちゃんと許可出してね、と言われて解放されるに至った。

「なんなんだよお前」
「いやー、ごめん」
「ごめんじゃねえよ」
「でもさ、ほら衝動的だったから」
「お前そういうことやってるからマネージャーに逃げられるんじゃねーの?」
「それいうなよ……」
「いや、言わせてもらうけどお前本当にそういうところあるぞ」
「はい……すいません……」
 二人並んで歩きながら帰路につく。夜風が気持ちよく感じるのは、きっとアルコールが抜けてきたからだ。
「で、届いたのか?」
「何が?」
「コユキにだよ!」
「届いてるだろ」
「どうして?」
「毎回ライブ中にコユキの幻覚を見る」
「それはアル中なんじゃないか?」
「かもね」
 二人で笑った。
「で、どうするんだ」
「どうするも何も、届けるしかないでしょ」
「どこにいるか知ってるのか」
「知らない」
「お前バカかよ」
「バカじゃない、アホだ」
「どっちでもいいわ」
「……でもいる気がするんだ。どこかに」
「まあ、それがお前がまだギターを握る理由だからな」
「まあね」
 終電が無くなった二人は無言で歩く。思うとコユキは激しい雨が上がった夜、その日も確か隆と酒を飲んだ帰りだった。その夜は最高に気の狂ったバンドがギターを壊しマリファナだったか、コカインだったかを吸って大騒ぎをかまし、ライブ自体がとんでもないことになってしまっていた。こんな夜にこそ酒を飲みたいもんだと隆と二人で安い居酒屋でビールを3杯くらい飲んだのだけれど、どうも演者を止めた時にできた傷が痛いと言うので、仕方なく帰る。そんな帰り道でのことで、だ。
「なあ、隆」
「なんだ」
「タバコちょうだい」
「ほら、吸え」
「相変わらずお前アメスピなの?」
「格好つけてハイライト吸ってたやつよりましだ」
「確かに」
 康人は笑いながら火をつける。そして、煙を大きく吐いてから言った。じゃあ帰るぞ、俺あっちだからと隆は話す。康人は笑いながら煙を吐いた。毎回毎回、別れ際はタバコ吸ってその煙で別れの挨拶をする康人は何をそんなに格好つけているのだと、隆は思うのだがまあそれもそれなのだろう。嫁にこっぴどく怒られるだろうなあ、と思いながらギターケースを背負いこんだ康人の背中を見送った。

 煙を上へと逃しながら、康人は一人で茶化したコユキの姿を思い出す。彼女は生きていて、きっと届いているに違いない。もう一度煙を吐いた。思い出が、白黒で蘇る。違う出会い方をしていたら、自分達は恋人同士になることが出来ていただろうか。マイクを握っていただろうか。ギターを弾いていただろうか。ステージを汚していただろうか。歌に狂っていただろうか。
 一つ言えるのは。きっと、もっと笑えていて。唇を噛む。想いと言葉がこぼれてくる前に。それなのに。言葉は口から紡がれていく。
「コユキ……」
 何度とこぼし繰り返した言葉は空へ消えて行った。

 西武新宿、まばらな駅前広場、ぼんやりと座り込んで遠くを眺めている女が一人。誰にも愛されないから死んでやろうと思っていた。どこか笑顔で話す人、スマートフォンを眺める人。誰も彼も自分になんて興味ないじゃないか。そう思いながら眺める。まん丸の月を見て、誰か構ってくれないかなと思いながら。
「そういえば、さっき歌ってたやつバンドのボーカルらしいぞ」
「ヤスト? 知らない名前だな」
「動画も出てるぜ」
「うおっ……声量すご……」
 誰かのスマートフォンから流れてくる声はどこか懐かしく、そしてヤストという名前。歌っていたのは、やっぱり康人だったんだ。目が合って驚いた彼の顔は、一緒に暮らしていたあの時と何も変わってはいない。鮮明に思い出す。本当に束の間だった幸せな瞬間を。
「ギター、鳴らしているんだ」
 月を見て笑った。

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