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Review: ルイヴィトン 2021年秋冬 メンズコレクション

・BLMに対する、ヴァージルなりの回答。

I am no stranger anymore. The world is love to me.
私はもはやよそ者ではない。この世界は私にとって「愛」だから。

昨年、BLMの運動が最高潮に達していたまさにその時、ショーン・ウェザースプーンが運営するヴィンテージスニーカーショップが略奪にあった際に、ヴァージル ・アブローがデモの暴力性に苦言を呈したことがネット上で炎上し、すぐさま謝罪声明を出すに至った流れを覚えているだろうか。彼は状況に対して正直なリアクションを返したにすぎないのだが、周囲からしてみれば、「いま言うべきことはそれじゃないだろ」というわけだ。同時期に、Golf Wangのショップが同様の被害にあったタイラー・ザ・クリエイターが「店は問題ない。ただ、壊れた店を直すことよりも重大なことってあるんじゃないかな。気をつけて、みんな大好きだぜ」とソフトな態度をみせたことも、ヴァージルには分が悪かった。ポップアイコンたるもの時代の空気を敏感にかぎとり、自身の発言や行動が未来にもたらす作用についてもっと意識的になるべき、なのかもしれない。

真のフェアネスとは何か。彼は自身の葛藤についてVOGUEの取材でこう述べている。

2020年は多くのヘヴィな議論が交わされた年だったが、いくつかのことに関しては議論の限界があることも判明しました。

無論、「ショーンがこのカルチャーに全身全霊を捧げているのがなぜ理解できないんだ」というヴァージルの発信から、「真のフェアネス」を見出すことも可能だ。言っている内容はタイラーとたいして変わりない。まずは落ち着いてくれ、みんなの利益になるような行動をとろうじゃないか、と。つまり彼は、リーダー的な立場から真っ当な正論をはいたにすぎない。

しかし、だからこそ余計に世間の怒りを買ってしまった。彼はBlackではじめてメゾンのデザイナーに就任し、そこで大きな成功を収めヨーロッパで確固たる地位を築いたことで、逆にBlackのコミュニティ内では「ストレンジャー」的な扱いを受けている。つまり、件の発言は、「もはや現実問題に対峙しなくても済む特権階級」から発せられたという点で糾弾されたのだ。一方で、タイラーはいくら売れても「地元コミュニティ(Odd Future)のリーダー」というイメージを保っているので、そのあたりも発言の響き方に影響しているのだろう。

だが、ヴァージルはそこで視座を下げるフリはしなかった。リアルな議論の可能性に限界を感じたことをきっかけに、今度はルイヴィトン 2021FWメンズコレクションの舞台で、Blackのコミュニティの外側にも視野を広げつつ、あらゆるマイノリティにむけた「表現」を志したのである。

先ほどの発言には、こんな続きがあった。

だけど、ファッションの舞台ではまだその議論を展開することができるんです。

ショーは、黒いハットをかぶりメタリックな鞄を持った旅人風の男(胸元にはパスポートらしきものがみえ、コートのボタンは飛行機の形をしている)が建物内に入り、おもむろに人名を叫び始めるところで最初のハイライトを迎える。

KKKの爆撃によって無残にも殺されてしまった4人の女の子(4 little girls)、ブロードウェイで演劇を上演した最初のアフリカ系女性作家であるロレイン・ハンズベリー(Hansberry)、人種と性の問題を同時に扱った作家のジェイムズ・アーサー・ボールドウィン(Baldwin)、コンゴ共和国の初代首相を務めたパトリス・エメリィ・ルムンバ(Lumumba)、ニューヨークを舞台にBlackやラティーノの生活を撮り続けてきた写真家のジャメル・シャバズ(Shabazz)、最初期のアフリカ系科学者として歴史に名を残したベンジャミン・バネカー(Banneker)、白人至上主義に侵されていた南部から秘密のルート=地下鉄道を使って奴隷を300人以上解放したハリエット・タブマン(Harriet)、BLMの裏アンセムになった「奇妙な果実」の歌い手であるビリー・ホリデイ(Holiday)、そして2パック(Shakur)……。

このリストには、マハトマ・ガンディーやチェ・ゲバラなどの政治指導者、ウォルト・ホイットマンやフェデリコ・フェリーニ、セルゲイ・ラフマニノフなど「Blackではない」作家もランダムに挟みこまれる。さらには、イスラム過激派組織のISIS、世界ではじめて原爆が投下されたヒロシマ・ナガサキという都市まで含まれているのだ。衝撃的な並びである。

では、そこにどのような共通項が見出せるだろうか。最初は、マイノリティの権利獲得に貢献してきた人たちを讃えているようにもみえた。しかしこれは同時に、「正史に虐げられてきた者たち」へ向けた鎮魂歌になっていることがわかる。マジョリティに反撃する術を失った者たちだけではなく、ISISなども並列にすることで、彼はあらゆる行為や現象の裏側にある「文脈」「構造」に目を向けることを人々に促していたのではないだろうか。

これはBLMを起点として、当たり前に語り継がれてきた正史以外の歴史に光を当てんとする、実に勇猛果敢な試みだったのである。ヴァージルは、オンラインで生中継されるファッションショーというプラットフォームの上で、するどい「批評」を展開してみせたのだ。

・ツーリスト対ピュアリスト

当事者としての視点と、外部としての視点。自身の決断や行動には、その2つの視点がおのずと反映される。主観というものが厳然と存在することは認識した上で、できるかぎりフェアでありたい。いま多くの人たちが直面しているその問題に挑むスタンスが、Off-White創立以来ずっと掲げてきて、今回のコレクションでもバッグやキャップでフィーチャーされた「Tourist vs. Purist」というコピーに表れている。

まず、彼は紛れもなくBlackである。しかし同時に、いま切実にレペゼンされている類のBlackではない。彼は誰がどうみても圧倒的な成功をおさめている。また、アート業界にもファッション業界にも完全にコミットしているわけではないことを、彼自身よくインタビューで話している。ものづくりにおいても、自分が何かを生み出す立場の「プロデューサー」でありながら、自分が生み出した表現に価値を見出す「消費者」としての意識を同時に作品にとりこんでおり、その間にあるギャップを埋める試みとして美術館展示「FIGURES OF SPEECH」を地元シカゴで開催したことがあった。

象徴的だったのは、コレクションの終盤に鞄(冒頭でEvidenceと表現されているが、これはBlackが差別されてきた歴史そのものを指すのだろうか)を引き継ぐ男がラッパーのYasiin Bey(ex. Mos Def)だったこと。彼が99年にリリースしたファーストアルバムのタイトルは、ずばり「Black On Both Sides(両方の立場にいるブラック)」だった。

そして、先ほどの固有名詞の並びでも意識的であったように、「Tourist vs. Purist」という概念はBlackのみに適用されるコンセプトではない。今や多くの人たちが、異なる思想、立場、階級のあいだで両足をめいっぱい広げて立っているような格好だ。何かを信じていると同時に信じていなかったり、何かにコミットしていると同時に別のものにもコミットしたりしている。俯瞰、といえば聞こえは良いが、当事者性がなく宙ぶらりんな状態ともいえる。

そんな時代で己の信念を問われると、瞬間瞬間で選び取ってきたものごとの積み重ねでしかないことに、はたと気づく。この社会のどこにも、本当の安寧なんてものは用意されていないのだ。そこでヴァージルは、あらゆる宗教間、人種間に暴力的にブリッジをかけることよりも、ただ「全てが存在していること」をレペゼンしようとした結果、このような包括的、だからこそ多くの矛盾をはらんだカオスなショー(終盤、バラバラの方向に歩くモデルがギリギリの距離で交差するシーンは示唆的)に仕上がった……このように読むことも可能だろう。

・「今度は私が引き継ぐ」

これまでBlackが権利獲得のために闘ってきた歴史のなかで、多くの血が流されたこともあった。その基盤の上に築かれた社会において、自分たちは何をすべきか。先人たちがやってきたことを忘れてもいけないし、無闇に対抗してもいけない。その意志を引き継ぎ、いまベストだと思える形でアクションを続けていくこと。ショー内の朗読で幾度となく登場する「Make it up to me.(私が引き継ぐ)」という言葉は、まさしくそのことを表している。

彼は「先人がやってきたことを引き継ぐ」という点にかなり意識的なクリエイターであり(彼ともっとも近い位置にいる「先人」がカニエ・ウエストだ)、その手法として音楽では一般的になった「サンプリング」を堂々と行う。今年の4月に行われたNumeroのインタビューで、ヴァージルはこう語っている。

おそらく、ヒップホップの爆発は芸術的民主化のメタファーと見なされるべきです。これらの文化の断片であるサンプルで構成することは、創造が無制限であることを理解することです。

また彼は、書籍化もされたハーバード大学の講義で、「ナイキからコラボの話がきたとき、スニーカーはすでに完璧な形をしていたから、何も変える必要がないと思った」と明かしている。そこで彼は「3%ルール」を自らに課すことで、偉大なアーカイブに対して手を加えるべき範囲にこだわった。ファッションデザインは表層でジャッジされるものだし、そうあってしかるべきだが、ヴァージルの場合はアプローチと見た目が直結していて、そのあり方自体が時代精神そのものである。それが現代におけるクオリティであるし、なんなら現代におけるパンクとも言い換えられるはずだ。ショーではその手法について、「壁を取り払って/物語を解体する/ミステリーを解明し/あらゆる”間”にスペースをつくる」と表現されている。

そういえば、旅人は例のリストを言い終わったあと、最後に「炎に包まれた者たち」と言い放つ。これは、Blackの差別問題を扱ったドラマ『Lovecraft Country』でも取り上げられたタルサ人種虐殺事件のことを指していると推測できるだろう。1921年にBlackのウォール街といわれたオクラホマ州のグリーンウッド地区で勃発したこの事件は、最近まで歴史から葬り去られていたが、近年やっと本格的な調査が開始されて、ひとまずバイデン大統領が同地を慰問するところまで至った。100年前に家を焼かれた先祖たちのことをけっして忘れない。ショーの細部から、そんな力強いメッセージが聞こえてくるようだった。

・未来の可能性に想いを馳せる。

まだデムナがチーフデザイナーを務めていたヴェトモンは2017-18年秋冬コレクションにおいて、ワーロドーブの典型的なイメージをデフォルメしてみせた。それは、「観光客って、たしかにこういう格好しているよね」という「あるあるネタ」を披露した上で、日常的で非ファッション的な光景のなかに潜むファッション性(アート性)にスポットライトを当てる行為だった。ブランドがひとつのスタイルに固執することなく、「世界には多種多様なスタイルがあるんだ」ということをレペゼンする。インターネットの発達によって一気に民に開かれていったファッションショーは、このあたりから社会批評を行う場としても本格的に機能しはじめた。

一方でヴァージルは、「日常的なワードローブから引用する」コンセプトからさらに推し進めて、スタイルと職業の結びつきにグッと焦点を当てつつ、そのステレオタイプを拡張してみせた。ショーの世界において、セールスマンの黒いコートは地面につくほど長く、建築家は建築模型を体にくっつけて闊歩する。また、ヴァージル自身の記憶とリンクさせて、かつて彼の父親が母国とアメリカの冠婚葬祭でそれぞれ身につけていたケンテの一枚布とスーツを混ぜたルックなんかもあり、ここではシンプルに彼なりの「自由な未来」を描いている。

以上、これまで書いてきたような考え抜かれたメタ批評と子供っぽい無邪気な手つきがひとつのショーのなかで混在するところが、ヴァージルの天才たる所以だ。重いと同時に軽く、シリアスであると同時にノリ優先、プレイヤーでもあり批評家でもある。

彼がこれまで様々な角度からアプローチしてきた「Tourist vs. Purist」のコンセプトは、本コレクションで見事に結実したのだ。

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