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平戸海ジャーナル① 坂口雄貴少年の出世物語

 立場や地位が人を作る、などと世間に流布したもっともらしいフレーズを語るのは苦手なのだが、これは「仕事がファンを作った」例といえるかもしれない。平戸市紐差町出身の平戸海関連の取材にまつわる話だ。

 高校の同級生のS君が何年も前、おそらくまだ平戸海が境川部屋に入門したての頃、その名前を口にしたことがあったが、私はあまり関心がなかった。大相撲は大鵬の頃から大好きで、しょっちゅうテレビ観戦もするが、平戸海の四股名を聞いて、「なんだその安直な名付けは」くらいに思っていたのだ。それがいつの間にか、番付を上げてきていた。

 最初に取材したのは十両に昇進した二〇二一年十一月、九州場所の前だった。どうやって、どこのどなたに会えばいいのか、雲をつかむようなところから始まった。と書きたいところだが、少しだけ手がかりはあった。同年夏、既に後援会が発足しており、その会長であるN県議(当時)から、後援会の事務作業を担っている紐差まちづくり運営協議会の事務局長Hさんを紹介してもらっていた。場所は平戸市街地で毎月末に開かれる「軽トラ市」だった。十両昇進を寿ぐべく取材の必要に迫られ、そのHさんに電話で連絡すると、平戸海が坂口雄貴少年だった頃から深く関わりのあった二人の男性につないでくれた。どちらも、ちびっこ力士だった雄貴少年を指導した人だ。一人の方(当時五六歳)はHさんから新聞の取材と聞いて「背広着て行かにゃでけんときゃ」と言ったらしい。

 この時の記事は同年十一月四日付けのN新聞長崎県版に掲載されている。珍しく写真四点使用の大盤振る舞い。同協議会の駐車場フェンスに懸かった〈祝平戸海 十両昇進おめでとう!〉の横断幕の写真、日本相撲協会提供の浴衣姿でガッツポーズの近影、小学三年時に鹿児島県であった相撲大会後に仲間と映った笑顔の一枚、そして取材直後に私が撮った紐差小学校グランド一角の土俵前に立つ作業着姿の件の二人である。私はHさんに「いやいや、背広だとかえって困ります。普段の仕事着でかまいませんとお伝えください」と電話で話していた。取材と聞いて背広をイメージした方は土木会社の経営者で、小三時の写真はこの人の提供。もう一人(当時四五歳)はその土木会社の従業員だった。この方は元鳴門部屋所属の力士で、三段目まで進んだが腰を痛めて引退し、帰郷したという。ガタイの良さに力士の面影を宿している。聞いていた平戸海の実家前を取材帰りに通ると、派手な幟が何本も立っていた。

 ところで、その記事は危うく瑕疵を伴うところだった。新聞表記のルールとしては、これの掲載面はスポーツ面ではないため、「平戸海関」と力士への敬称「関」を付けるべきところ、ちゃんと認識していなかった私は最初、単に「平戸海」と書いた。担当デスクもうっかりしていたようだ。長めの記事なので掲載日が先送りになる中で別なデスクが記事を扱い、その人が気づいたおかげでことなきを得たのだった。

 後援会の正式な事務所は紐差の三輪神社の社務所にある。神社は白亜の外観で知られる紐差カトリック教会と隣り合っている。神仏混淆ならぬ、ここでは「神々隣接」であることを記事の末尾近く、教会の鐘に託して書いた。さらに末尾には、後援会が贈る新十両の化粧まわしが、本人が締めるより先に平戸へ旅することを記した。

 あれから平戸市内には応援幟があちらにもこちらにも立っている。

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