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人を見るときの認識

「属性じゃなくて、人の内面を見る」

電話で元彼と話していたときに言っていた言葉。別れた今でも毎週電話する歪な関係だが、いつも彼の考えには感心させられる。


出身、誕生日、血液型、部活、学歴、職種、趣味、性格診断、その他いろいろ。

私は人を覚えるとき、どうしてもタグ付けをして覚えるため、人のことを忘れづらい反面、これらがいわゆる人を見るフィルターとしての障壁となる。悪い意味だとレッテル貼りだけど、そうしないと次の日には、というかその日のうちに本当に名前から全て忘れてしまう。ある意味こうしたタグを覚えている量で、人の関心度合いを示している。

多分、内面100って言っても、その人の性格というか言葉で表現できない領域に最初から辿り着くことができる人は、普段からあれこれ相当よく考えている人だと思う。大抵は外面や内面の表層的な部分だけを汲み取ってその人のことを判断する。

友達に指摘される通り、自分でもよくない癖。

だけど、治らないところもある。というか、生涯治せない。

人はどこまでいっても分かりあえない。相手を分かったつもりにしかならない。分かりあおうと歩み寄る姿勢が、人と人を繋ぎとめるアンカーなんだと思う。


最初から歩めない

とはいえ、やはりレッテルというのは厄介なもの。

その話し相手が地元、という属性だけで基本的に無理だった。
学生の当時は問答無用で全員嫌いだったけど、視野を広げて大人になって、どこか分かりあえると思った。

でも何も分からなかった。昔の自分と大して変わらなかった。

「ただでさえ、昔仲良かった人でさえ、今すれ違いが起きて疎遠になるくらいやねんから、昔嫌いな人なんか今好きになれへんよ」

と属性判断はよくないと指摘した友達が言う。

地元ってだけで、何が駄目なんだろう?と湯舟のなかで熟考する。
皆それぞれ頑張っているのは百も承知だが、同じ境遇に立っていたことがあるかの違いが大きい気がした。

きちんと勉強をして大学を出た。何かに向けて死に物狂いで生きている。
地元でも、というか地元を出たような人はすんなり喉元を通るかのごとく受け入れられた。何故なら、その人との共通点があって、分かることが多いから。
でも、何一つ掠っていない人は駄目だった。趣味が似ていたとしても、根本の発想が違う。
別にそれが悪いという訳ではない。人生にはいろんな色があって然るべき。ただ、真に理解できないものは、そもそも理解しようとすることすら捨て去ってしまうらしい。だからきっといつまでも争いが絶えないのだろうなと、国際系の学部を出ているにもかかわらず溜息。


傲慢と善良

そもそもなんでこんな属性なんて考えをするに至ったのか。辻村深月先生の『傲慢と善良』を読んだからという。

まだ内容は途中だけど、自分を過大評価するあまり、「自分がこんな人に収まるような人間じゃない」「自分にはこれくらいの人間と付き合って当然」みたいな傲慢さを抱くというところから、確かにな~と思ったのがきっかけだった。

自分も彼氏を好きになるとき、勿論見た目だの波長がどうのとかあれど、基本「話のレベル感が合う」「今後すごい成長しそう」みたいな下世話な理由もあった。属性判断もいいところだけど、確かに考えればどことなく内面を見ていたのかもと思ったり。ただ、そこに行き着くまでに数多の属性関門を乗り切って、初めて彼氏にしたいか深堀りしていくという審査が始まる……みたいな感じで、非常に辛口ジャッジだった。まあ、だから簡単に彼氏できないんですけども。

逆にそこにすら辿り着かない人からの好意は生理的に受けつけ難い部分もあった。ストレスにセンシティブなため、1回話すだけで大体合いそうか合わなさそうか見抜ける。そして大体当たる。だからお話にもなりません、と登場人物の真実みたいな傲慢なことになってしまう。

しゃあないやんか、そんなものは、、、皆偏見でしか生きられへんねんから。


とはいえ、視野を広げることに関しては人以上に好奇心旺盛なため、属性や趣向が違えど、少しずつ耳を傾けるようにはしている。合わなかったら合いませんでした、すんませんという感じでシャッターを下ろすが、少しずつでいいから、大人になろうと頑張っております。

オチかは分からないけど、皆の衆もどんな目で人を見ているか時間潰し程度に考えてみてもいいかもしんないということで、この話は締め。


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