優しくされたい

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気分を吐き出しただけの、ロクでもない記事です。読んで楽しくなったり、タメになったりはしません。いつもそうだけど。
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人に優しくされたい。
久しく誰からも優しくされていない気がする。
最近、無性に誰かに優しくされたいと感じている。

優しくされたかったら、まずは人に優しくするべきだろうな。
でもボクは、いつでも誰に対しても優しくしていたはずだ。
ずっとずっと優しかったはずだ。

自分で言うのもなんだけど、いや多くの人も言ってくれているのだけど、ボクはかなり優しいほうだ。
誰にでも優しくしていた。
嫌われている人にでも、立場の弱い人にでも、親しく優しくしていた。
優しさが滲み出ているのか、初対面の人に優しそうな人とよく言われるほどだ。
だからボクの優しさが足りなかったはずはない。
それなのに、なぜ誰もボクに優しくしてくれないのだろう。

「優しさ」とは何だろう。
いろいろ調べると、他人の立場や感情を考えられることと理解した。
まさしく、にんべんに憂う、人を憂う、人を心配するということだ。

得意の快不快理論から説明しよう。
快不快理論とは、人の行動原理はただ不快に感じることを取り除き、快と感じることに向かうことであり、その快不快の感じ方の違いが人の個性なのだというものだ。
優しい人とは、他人の快不快を自分のことのように感じ取ってしまうと考えた。
そのような人は、他人の不快が自分の不快となるので、それを取り除こうとする。そして他人を快にする。それが自分が快となる。
だから見た目には、他人の不快を取り除き、他人の快を得ようとしている。
それは利他的な優しい行動に見える。
ただその行動原理は、自分の不快を取り除き、自分の快に向かっているだけの利己的なものなのだ。
自分の快不快のための行動が、優しい行動として人に見えるのだろう。

人を憂うっているんじゃない。自分を憂うっているんだ。
自分だけが心配なんだ。

白状しましょう。
人に優しくした時、めっちゃ気持ちいいと感じています。
マゾヒスティックでナルシスティックな快感も同時に感じているかもしれない。

しかしなあ。
そういう優しさって、本当の優しさなのだろうか。
本当の優しさが別にあるとしたら、どんな優しさなのだろう。
自分の中の優しさは利己的な優しさしかないから、それ以外の優しさについて想像することができないな。

「優しい」の語源を調べると、なんと「痩せる」とありました。
極端に言えば、痩せるの形容詞が優しいのだと。
つらくなって痩せ細ってしまう様が優しさであると。
痩せ細るほどに人を憂いているということなのか。

実は最近すこし気分が落ち込むことが多かったところへ、いろいろと暗いニュースを見聞きして、さらに落ち込んでいた。
災害のニュースなんて長く観るものじゃない。
寒いのも良くない(古くて大きい家の何と寒いことか!)。
でも痩せ細るほどではなかった。
逆に少し体重が増えていた。
痩せ細るほど人を憂いてはいなかったということだ。

あーあ。
DOWNな気持ちで記事を書くんじゃなかった。
最近しばらく書けなかったのは、このようにロクでもないことを考えて悶々としていたという訳です。
あーそれにしても誰かに優しくされたい。
誰か優しくしてくれないかなあ。利己的な優しさでもいいから。それではまた。

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