木曜ドラマ「silent」6話感想

本作は一見すれば、「ろう者と聴者の恋愛ドラマ」である。しかし「恋愛ドラマ」ではないかもしれない、と3話感想の最後に書いた。
6話で思い直したのは、「ろう者と聴者の」の枕詞も決めつけだったのではないか、ということだ。


ろう者と聴者、男性と女性、幸福と不幸。
二項対立というものは分かりやすい。
だが、そういう構造主義的な認識ではこぼれ落ちていくものも多い。

想は、そのあわいの中を漂っている。
変化していく自身に戸惑い、ろう者にも聴者にもアイデンティティを見出せていなかった。

その想に対して夏帆が演じる奈々が発した、
「音がなくなることは悲しいことかもしれないけど、音のない世界は悲しい世界じゃない」
という言葉に、想と同じくハッとされた。

二項対立の片方に分類されたあとは、その中で混同されていってしまうことが多い。
さらに、表面的な形而下の事実と、それが本来持つ形而上の意味も、混同されてしまいがちだ。

しかし、大まかに分類するという捉え方は理解の一歩目ではあるが、そのままでいいということではない。

「線から1mm右にいる人も、100m右にいる人も、まとめて『右にいる人』にされて、『左にいる人』との対立構造にされてしまう。その中に本来あるグラデーションを、見逃さないようにしたい。」

そういう台詞が、朝井リョウ「死にがいを求めて生きているの」にあった。
同じようにデリダの脱構築的な認識ができたらな、と思う。

ろう者の8割はろう者と結婚するんですよ、と風間くん演じる手話の先生は言っていた。
だがそもそもは、聴者とろう者、という分け方は数多あるあらゆる分け方のひとつでしかないはずなのに。

聴者とろう者は分かり合えないのだろうか?
そのどちらでもない想は誰とも?

そんなことはない、と信じている。
星野源の「不思議」の一節を思い出す。

「幼い頃の記憶 今夜食べたいもの なにもかもが違う
なのになぜ側にいたいの 他人だけにあるもの」

聴者とろう者という違いだけでなく、人はあまりにも多くの違いを受け入れて乗り越えて、ともに生きている。なのにろう者と聴者という違いだけが決定的な差であるはずがない。

ただ同時に、人は互いの思いを本当の意味では分かってあげられない、とも痛切に思う。

その中で無力感に立ち向かうために、「おかえりモネ」での菅波先生の言葉を反芻する。
「あなたの痛みは、僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」

スタティックにそれ以上傷つかない為に線を引くのではなく、分かれないことを知りながら、それでもなお分かろうとするダイナミズムこそが、愛なのだと思う。(恋愛的なものに限った愛ではない)

そういったことを踏まえれば、本作は「聴者とろう者の恋愛ドラマ」ではなく、
「あらゆる違いを乗り越えるため、あるいは受け入れるために、お互いにもがく人たちを描いた群像劇」と言う方がしっくりくるような気がする。

ただ、どう言い換えても言葉から漏れていくものはある。
そのグラデーションのあわいを伝えるのは、言葉ではなく表情や仕草や行動だよな、とも思い知らされる。
そこに手話の話者の方たちは長けているように見える。夏帆演じる奈々の魅力はそこにある。

その彼女が抱く、好きな人と手を繋いだまま話したい、という思いはこの先どうなっていくのか。
ラカン的に「欲望とは他人の欲望の模倣である」と捉えれば、聴者がそうしていることなんて知らなければよかった、ということになってしまう。

それを超えていってくれるのは、きっと紬だ。
2話で「悲しい思いをするのなら、好きな人に出会わなければ良かったと思いませんか?」と風間くんに問われた時、彼女はまっすぐに
「好きになれてよかったと思います。思いたいです。」と答えた。

その言葉のように、聴者ろう者に限らずあらゆる違いのグラデーションを見逃さないまま、その清濁を知った上で、出会えてよかったと思えるような結末を迎えてほしい。それは多くの人の勇気になると思うから。来週も楽しみ。

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