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年森瑛「N/A」

「性的ダイバーシティを肯定する自分で在らなければならない。」
「自分はマイノリティの当事者ではないが、彼ら彼女らを進歩的に理解しようとしている。」

 こういった人々が現代社会には跋扈しているし、自分もその一人である。ただ残念なことに、マジョリティはマイノリティを理解しようとする際、名前の付いた「マイノリティ」しか認識出来ない。そしてせめてもの手段として、或る属性の人々に対して加害者にならない為に良いとされる手法を学ぼうとする。2022年現在、社会はそういう繊細さを獲得しようとする過程にある。

 しかしながら現状のカテゴライズはまだまだ粗く、「悪者になりたくないマジョリティの為のマイノリティ論」と化している。そんな状況においては、マジョリティが悪意なく、むしろ善意で放つ「どこかで推奨されている対マイノリティ用の温かい言葉」にマイノリティは辟易しているのではないだろうか。なぜなら、それは粗いカテゴリー全体への言葉であって、個人ひとりひとりに向けられた言葉ではないからだ。本作の主人公は、そこへの違和感を強く感じている。

 彼女はただ単に血が出るのが嫌だから、という理由で生理を止めるために極端に食事を制限している。だが、親や教師は「対拒食症患者用の温かい言葉」をかけてくる。また彼女は、異性であることを理由にしないかけがえのない関係を築きたい、という理由で、教育実習で来たOGの女子大生と付き合っている。だが、交際の事実を知った友人は「対レズビアン用の温かい言葉」をかけてくる。また同時に、交際相手からは、パートナーとしてSNSで発信し『同じ』性的マイノリティのコミュニティで連帯して社会を変えていく取り組みへの参加を期待される。

 それら全てが主人公からしてみれば、そういうことじゃないんだよな、という勝手なストーリー化であり表層的なカテゴライズである。彼女は文脈や型に決めつけられない、ありのままの個人であることを尊重してほしいと思っているだけだというのに、社会はその存在を理解するために特定のレッテルを貼って、ある文脈の中に位置付けようとする。ドラマ「MIU404」で久住が「俺はお前たちの物語にはならない」と悲痛に言い放ったシーンが思い出される。ここであえて言葉にするなら彼女はクィアなのだろうが、彼女自身が自認しない限りそのカテゴライズはお節介に過ぎない。彼女にとって彼女は、彼女自身でしかないのだ。

 言語化というものには限界があり、本質がゆらゆらと不定形であっても、或る形に切り取ってしまう。そしてどうやっても切り捨てられる“あわい“を拾うために、また新たな言葉を生み出し、また言語化の限界を突きつけられる。その繰り返しの過程が今の「多様性」の社会である。

 ただ、そういった社会の潮流に個人レベルの全ての関係性を合わせる必要は、無いのかもしれない。他者との関係は無理に言語化しなくてもよい。そう思わせてくれた印象的な場面があった。

 終盤、主人公の友人のひとりが、家族関係や経済的理由等で進学を諦めなければいけないかも、という内容を3人のグループLINEに送ってくる。その複雑な問題に、高校生である主人公たちは友人としてどうしてやることもできないし、どんな言葉をかけていいのかも分からない。それに対し「黙って既読だけ付けるから、吐き出したいだけ吐き出して」とだけ返信し、2人は既読だけ付けることにする。その既読スルーは、どこかで推奨されていた訳でもない、杓子定規でもない、何かのカテゴライズに言葉を押し込める訳でもない、全身全霊の既読スルーであった。なんて温かい、既読スルーだろうか。

 そしてそれは、ありのままの個人自体に向けられた、無言のメッセージだった。ここに映画「ドライブ・マイ・カー」での「雄弁は銀、沈黙は金」を見た。あるいは、朝ドラ「おかえりモネ」での菅波医師の台詞、「(あなたの抱える問題がどういうものなのか)分からないので、不甲斐ないですが、僕から建設的な意見を述べる事はできません。ただ、回答できない分、聞くことはできます。何かありましたか。」に通ずるものがあった。主人公は、言葉や属性や文脈に決めつけられた建前でしかない言葉を必要としない、「かけがえのない他人」を無自覚にも手にしていたのだ。それを単に友情としか形容できない自分の語彙が悔しくなるような、素晴らしいシーンだった。だが今作最大のカタルシスは最後に訪れる。

 ラストシーンにおいて主人公は偶然にも、別れた元恋人である女子大生に助けられる。にも関わらず主人公は、優しくされたからって復縁したりしないから、と言い放つ。それに対して元恋人は、「恋愛じゃないと優しく出来ないなんて、そんな訳ないじゃん」と吐いて去る。彼女は何の文脈もなく、目の前に困っている人がいたから助けただけだった。その行為の意味を主人公は勝手に邪推し、矮小化したのだ。

 ここが、作品全体を通じて読み手と主人公との間に絶妙な距離感を感じさせた本作を象徴する場面だったように思う。主人公はあらゆるものを批判こそすれ、自らが批判される対象になるとは思っていないのではないか。そう薄っすら読者はこのシーンに至るまでに感じさせられていた。それがラストで一気に表面化した。散々カテゴライズの被害に遭ってきた主人公もまた、相手を自分の思い込みとも言える文脈の中で勝手にカテゴライズしていたのである。その疎んでいた加害性を自らの中にも発見した彼女と、それを目撃した我々は、これからどう他者を理解しコミュニケーションをとっていくのか。唯一の答えなどない、一生続いていくであろうにじり寄りへの自覚を彼女と読者に鮮やかに突きつけ、この物語は幕を閉じる。

 人は人と関わり合っていく以上、何かを選ぶことは他の可能性を切り捨てることと同義だ。何をするにしても自らの持つ加害性からは逃れられない。ただ、それに対する処世術として「社会的に推奨される言葉を表面的になぞる」なんて手法にインスタントに頼りきりになっていいのか。できる範囲で、自らが大事にすべきと思う関係性だけでも真摯に向き合い、丁寧に紡いでいくことを続けていくべきではないのか。それを無意識のうちに出来る人はいい。だが、多くの人はもっと意識的に努力してもいいように思う。安易なカテゴライズと一般論を、相手に押し付けてしまう前に。そういう一歩一歩を引き受けていくたび、各個人とそれぞれの関係はコピーなんてできない、何に対してもNot Applicableなものであることを、実感していくのだろう。

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