勝手に解脱宣言

 お釈迦様が悟りを開いたと言われている日が12月8日。
煩悩に溢れた世界を楽しんでいる私には、じゃあミルク粥でも作ってみるかな、という程度の意識レベルの日ではありますが、記念すべきこの日に私は”おババ解脱宣言”を発表してみる運びとなりました。うふふ。

 さて、解脱とは何ぞや。Wikiによると、解放、悟り、自由、方面と手に入れた状態を指すらしいのです。解脱という言葉は、俗世にまみれたお寺で暮らす私の耳には普段は入ってこない言葉。周りのお坊さんもお経の中も、いつかは解脱出来るよ、でも遥か彼方で今じゃない、って認識で物事が動いているからで。聞こえてくるとしたら、もっと別の・・・。

 話がそれる前にババです。
最近のババには“怒る”とか”苦しむ”といった、鬼の状態がありません。もちろん、ぶつければ痛いし、酸素の管が詰まれば苦しいのですが、以前のように自分の不甲斐なさに嘆き悲しむようなことが無くなりました。それはロセナンという気持ちを落ち着ける薬のおかげかもしれないのですが、以前のババの苦しむ状態を思い出すと、もう薬使っていいよね、と思ってしまうのです。
 ババは、今でも心配して顔を見に来てくださる方々の言葉を総合すると、とてもテキパキとよく働くデキルおばさんだったようで、ババは自分の仕事の切れ味が鈍ってくることが受け入れられずに、言いようもなくイラついて周りにも当たって、でも自分でもどうしたらいいのかわからないのよーーーーっつ!、という数年間を過ごしておりました。同居の私は、その状態のババと付き合うのにかなり苦労しました。病院に行っても役場に行っても門前払いで相手にされません。本人と、どうしたらそのイライラが治まるのかを話してみれば解決の糸口が見つかるのでは、と言葉をかけても考える力が無くなりつつある人には酷な質問で、火に油を注ぐ結果となりました。自分の親の苦しむ姿は、未来の私を映し出しているようで心底恐ろしい状況でした。私、あんなふうに苦しんで死ぬんやー--と思うと、灰色な感じです。

 どうやって自分の人生に決着をつけるのか

 後に続く者にとって、先を行く者の生き方死に方は人生の大きな指針であります。あの頃の私は、冷静にババの生きざまをできるだけ遠巻きに見定めるように暮らしていました。

 ですが、今年の1年間で状況は一変しました。
私ったら、いつからこんなにババのこと大好きになったのかしら・・・、いつの間にか不思議な魔法にかかっておりました。こんな気持ちのささくれない介護ライフがあってよいのでしょうか、と首をひねる毎日なのです。ババがヘルパーさんに手を合わせてお礼を言っていたり、冗談に笑って見せたり、そんなババの姿をここ何年も忘れていました。何よりもババの表情が明るくて、寝たきりのくせに幸せってあるのか、それって死ぬのも悪くないってことかな、と思わせるに足る説得力たっぷりのさっぱりした表情は、ババだけでなく周りに居る人全てを肯定する力があるようです。行きたいとも死にたいとも思ってないけど、家族に会うと嬉しくて、おいしいものを食べると嬉しいくせに、何が食べたいかはわからない。。。。
欲の無くなった人って、こういうの状態なのでしょうか。
 
 この状態がいつまで続くのかはわかりません。もしかしたら、鬼がやって来てある日突然ババの顔が般若の形相になったら、最近の梅雨明け宣言取り消しよろしく解脱宣言も取り消して、じっくり人生の仕舞い方を見させていただきます。
 でも、この介護期間を過ごすことで私とババの親子の在り方を見直せているのは確かです。結局やりたいことしかやってねえな、と悟った私です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?