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青龍を追った男〈1〉② 第二節 定永県編

第二節 定永県編

青望は十四歳になっていた。厦門の海に近い貧民窟に住んでいる。

十一歳で家を出てから三年がたつ。体は一七○センチを超えていた。体は細かったが、鞭のようなしなやかな筋肉を持ち、力は同年代の少年では飛び抜けていた。運動神経がよく足も速い。身軽で俊敏であった。

けんかをしても負けたことはなく、大人相手でも負けることはほとんどなかった。学問は十一歳まで祖父の教育を受けたおかげで字も読めるし、ある程度書くこともできた。自分のテリトリー内では誰よりも漢字を知っていた。頭の回転が早く、悪知恵がはたらく。記憶力に優れ、抜け目がなかった。

ゆえに、いまの貧民窟の中の生活では困ることはほとんどなかった。

青望は龍岩市永定県の円楼に住む陳家に四歳の頃から預けられていた。複雑な境遇に育ち、陳家に預けられるまではほとんど喋らず無表情でいた。おそらく乳児期より異常な性格の母親から虐待を受け続けていたことに起因する。陳家は青望の母・林雅の父の実家であった。ただし、父・万福は養子であったため雅と祖父母は血がつながっていない。ゆえに青望と陳家に本当の意味での血縁関係はない。

陳家は客家の家系で、円楼の集合住宅に住んでいた。円楼は四階建ての土楼で1階は中央に廟があり、他に農業用の小屋や家畜小屋や井戸などがあった。二階は共有部分に廟や集会所や食糧庫があり、三階四階は住居になっていた。近頃では福建の円楼や方楼は以前よりも大きくなってきていて、四階、五階建ての高楼も出現した。理由は清国になり国力が安定したことと、物資が豊かになり客家の人口も増えてきたことがあった。そのほかには銃や武器の性能が上がり、匪賊などの外敵への頑丈な備えが必要になったこともあろう。

青望は初めて陳家の住む円楼に来たとき、その大きさに驚き彼なりに興奮したものであった。豚やアヒルなどの生きている家畜を見たのも初めてで、あらゆるものが新鮮に映った。これまで彼が住んでいた厦門の市街にある乾物店は小さくはなかったがこの円楼の規模にはかなわない。城郭を思わせる円楼は、人を怖がる性格のせいか青望には頼もしく思えた。

陳家は四階の比較的大きな部屋に住んでいた。部屋に入ると簡単な煮炊きができる小さい窓がある広い部屋があって、さらに左右に小さく区切られた部屋が四つある。そのうちの小さな部屋二つが寝室になっていて今はそれぞれ林雅の祖父・興福と祖母・美玉が使っていた。青望を陳家に連れてきたのは青望の母方の祖父の張良文であった。いったんは陳家へ青望を預けることが決まっていながら林雅が家を出るときに黒龍酒楼へ一緒に連れていってしまったために、取りやめになっていた。しかし、幸か不幸かその後林雅は厦門の新しい生活が楽しくなったため青望がたちまち邪魔になり、張家の許へ青望を送り返してきた。良文・良剋親子は今度こそ青望を陳家へ預けることに決めた。

青望はその時点では尚と名乗っていた。しかし、名付け親の張良文が、自分の孫にあまりにも悲惨な幼児期を過ごさせてしまったことを今では悔やみ、せめて尚の名を陳家では新しい名に変えてほしいと興福に頼んだのであった。

興福はその子を憐れんで承諾し、尚の左の瞳が青いことから、青望とした。尚を望に変えたのは、太公望呂尚にちなむ。奴隷の身からやがて斉王となった呂尚のように過去を克服してほしいとの願いからであった。林尚から陳青望となったことを青望自身もなんとなくうれしげに受け入れたようであった。

そのときから青望は陳興福の客家流の厳しい学びと陳美玉の愛情の深い躾を受ける生活が始まった。美玉は厳しいが愛情豊かな温かい人間であった。躾として体罰も辞さなかったが、青望の歪んだ性質を含めて受け止め、まるで自分の子どものように扱った。初め青望はそれまでと変わらず無口で無感情の状態が続いたが、五歳になる頃には二人によくなつくようにもなった。やって来た当初まったく笑わなかった青望も、円楼の住民たちや牛や馬などの家畜動物に接するうちに、次第に本来の明るい部分をみせるようにもなっていった。

興福は歴史や文学に造詣が深かった。客家は読書を身を立てる上での大切な習慣ととらえていた。興福は青望を子ども扱いせずに、一人の人間として扱い、子ども用のテキストは使わず、大人が読んでも難解な本や書をそのまま青望にみせた。興福は実際に使わないような実践的ではない書物など覚えても意味がないという主義だ。「すべてを理解せずとも、自分なりに何かを掴めばそれでよい」と考えていた。ゆえに教え方は型破りで、例えば、あるときのテキストは酒店や飯店のお品書きだったり、街にある看板だったりした。建物に書かれた文字や言葉を外に出かけたりしながら「これはどう読んでどう書いてどういう意味なのか」を直接教えた。時には東洋思想的なものも教えた。風変わりな教え方だったが、青望はそれに応えるように実際に役に立つ読み書きをいち早く着実におぼえていった。

客家は教育熱心な集団であった。読書を重んじ、人生のグランドデザインを自らできるようにしつけられる家が少なくなかった。学問は余所者としてのハンデを乗り越えていくための手段でもあった。陳家では農業以外にも料理人や理髪師、裁縫などの仕事のほか、役人や軍人を目指すのが普通であった。

青望は頭の回転が速く、興福もその出来の良さに驚いていた。青望がその気になればいずれ科挙の試験にも通るのではないかと思うほどであった。

しかし、あるとき青望は円楼に来る以前のような暗い無表情で帰って来た。美玉は気になって聞いてみたところ、「おまえの母親は汚い売春婦だ」というようなことをいわれたらしいことがわかった。

林雅は十六歳までこの円楼に暮らしていた。だから雅を知る人間は多い。実際、林雅は興福と性的な関係をもった時期があった。円楼の中でも林雅と性的関係をもった人間はいまだにここに住んでいたし、噂は広がっていた。興福も本当のことでもあり罪悪感もあって黙っていた。美玉も黙って耐えていた。

結局青望には何も伝えられないまま、二人は黙るしかなかった。青望は二人から何の回答を得られないことに傷を受けたし、興福と美玉の二人は青望がそれからの人生を「売春婦の息子」呼ばわりされ続けるのだろうということを漠然と理解した。興福も美玉も青望に対し、悲しく申し訳ない気持ちを抱いたのは同じであった。

青望は林雅と祖父・良文との性行為だけではなく見知らぬ男性との交情を見たことがある。それは一度や二度ではなかった。時には林雅は男との情事を――いったいどういうつもりなのか――あるときを境に青望に露骨に見せていたことがあった。そんなときの青望はただ無表情に焦点が合わないようにどこかを見つめているようだった。

黒龍酒楼にいたときも、何度か母の情事を目にしていた。外側からは分かりにくかったが、青望の心の奥には実際深い悲しみや癒しようがない傷が横たわっていた。だが、いつの頃からか、ただ無表情に現実に焦点を合わせないことでその場をやりすごすことを覚えてしまった。「自分は母から見捨てられている」という思いがいつも心に居座っていた。

青望は泣くこともできず、ただ体だけはこの世に存在しながらこの世から消えていた。現実を離れ内面奥深くに逃げ込んでいたのであった。青望はそれを自分でもどうしようもできないでいたのだ。

時が経るに従い、内向的だった青望は少しずつ明るくなっていった。美玉が青望を自分の子のように思い、実際に愛を注ぎ続けた賜物であったろう。青望は「売春婦の息子」という嘲りを体が次第に大きくなり丈夫になりはじめた頃の「ある日の出来事」を境に、力でねじ伏せることができるようになっていった。

「ある日の出来事」は青望が八歳のときのことであった。青望は興福と美玉に愛され、この頃はよく笑うように変わっていた。陳夫婦はそれをことのほか喜び、今まで以上に青望を可愛がっていた。実際に青望は人を惹き付ける可愛げがあった。

そんな青望の存在を妬む二歳年上の三階に住む少年がいた。名を徳季といった。

彼は頭がよく「売春婦の息子」の意味もよく理解していて、青望をいつもからかっていた。彼は子どもたちの集まりではリーダー的な存在であった。いつも手下を引き連れていた。青望にはいつも一緒に遊ぶ同じ階の子どもが二人ほどいて、仲が良かったのだが、ある日その友達二人が青望と遊ばなくなってしまった。二人は徳季の仲間というか手下になって青望を無視するようになった。青望はその事実を知ると無表情になり、ニ、三日部屋にこもってしまった。

美玉はその事態に気付き、青望を抱きしめて慰めた。「何も悪くないのだからあなたはひきこもらずに表で堂々と遊んだらいいのですよ」と励ました。青望は無口のままだったが「うん」とうなずいた。しばらくして台所の隅から何かを懐にしまうと走って外にでかけていった。

一階の廟の辺りの広場で遊んでいた徳季らは外に出てきた青望を発見すると、1階の廟の死角の「人目に付かない所」に連れて行き、取り囲んで罵った。その場所はかつて林雅が性的行為を行っていた場所でもあった。

いつもは無表情になるだけの青望はこの日は違っていた。懐から何かを取り出したと思ったそのとき、青望が山仕事で使われるナタを横一文字に振り回したのだ。ナタは廟の柱に食い込んで止まった。徳季の首までほんの一○センチの距離であった。徳季は驚いて足を滑らせてその場に転ばなかったら、首が飛んでいたかもしれない。徳季の手下どもは青望といつも遊んでいた二人を含めて、あまりの出来事に動きが固まってしまった。

青望はナタが抜けないほど柱に食い込んでしまったことに気づいて、どういうわけか笑いだしていた。それはいつもの可愛げのある笑いではなく、薄気味の悪い狂気の人間の笑いそのものであった。固まっていた子どもらは徳季を置きざりにして、一目散に自分の家に走っていった。徳季は失禁したまま腰が抜けていた。

青望は徳季を微笑みながら見下ろしていたと思うと、青望の性器をわしづかみにして引っ張り出し、徳季の頭をめがけて放尿した。徳季はあまりのことに、口を開けたまま青望のしょうべんをうがいでもするように浴びた。しばらくすると急にしょうべんは徳季の頭の上をこえた。よくみると青望の陰茎は硬く大きくなっていた。勃起していたのだ。

自分とはあまりに違う――まるで成人の持ち物のような――青望の硬くなったものに驚き、徳季は青望への闘争心のようなものが急激に萎えていくのに気付いた。

(おれはたぶん、たった今から、こいつの命令に従うようになるんだろう)

そう徳季は理解していた。

「ある日の出来事」を境に青望は多くの子分たちを従えて遊ぶように変わった。陳家の畑仕事を手伝うようになると青望の体はさらに顕著に大きくなり、十歳になる頃には円楼内の少年で歯向かう者はいなくなっていた。

美玉は日ごとたくましくなる青望を嬉しく思う半面、青望の瞳に育ちつつある龍のように凶暴な「スケールの大きな得体のしれないエネルギー」を感じて戸惑っていた。この子は確かに頭もいい、生まれついた明るい無邪気さや可愛げがある。思いやりも持っている。それなのにどこか薄気味の悪い不吉な影が消えない。もしかしたらこの子を、世の中に出してはいけないのかもしれない……美玉はそう感じ、自分が毎月お参りに行く寺院に預けることを本気で考え始めた。

青望は十一歳になった。美玉は興福に「青望を出家させる」という自分の考えを打ち明けた。興福は最初反対したが、近頃の青望の喧嘩やいたずらの質の際どさを思い、次第に美玉の考えになびくようになっていった。

十一歳の夏、青望は厦門の南普陀寺に預けられることになった。青望は当然いやがった。しかし、ある日例の無表情になって部屋にこもったあと、観念したのか「南普陀寺に行く」と自分から言いだした。その時は興福も美玉も喜んだが、青望の真意というか魂胆を見抜けないでいた。

第三節 厦門編

南普陀寺は厦門市にある名刹で唐の時代の創建と伝えられる。高台にあり、厦門市街やコロンス島を望み、東シナ海も見渡せる。剃髪した青望は最初は大人しく従った。

青望は元来好奇心が旺盛で、寺というものがどういうものなのか知りたいとも思っていたのだ。それにここ厦門は自分が生まれた街でもあり、ぜひこの目で確かめたいと思っていた。四歳の時の記憶はないわけではなかったが、はっきり覚えているわけでもない。自分の母親も厦門のどこかにいるとも聞く。一度会ってみたいと思っていた。

「売春婦の息子」と言われ続けた元凶の実母へのはっきりした記憶はなかった。憎しみは表の意識からは消えていて、時に実母への淡い恋心に似た甘い感情にさえ襲われることもある。

ただ、「殺したい」という気持ちをずっと抱いていたような気もする。それらを確認する意味でもぜひ会ってみたいと考えていた。

「陳の家を出よう」と考え始めたのはいつだったか……青望は寺から頃合いを見計らって逃げて厦門の市街に潜り込もうと考えていた。そして永定県の陳家にも帰らないで、いつか船に乗ってどこかへ行くつもりでいたのだ。昔からなぜなのか自分はいつも同じ場所にとどまっていてはいけないような気がしていた。根拠はよくわからなかった。

だが、厦門の寺に来てからというもの、海を見るととても懐かしいようなそれでいて胸が騒ぐようななんともいえない気になる。どこか知らないさまざまな場所に出ていきたいと決まって思うのだ。寺に来てから時間が空くと港が見える場所を探しては飽きることなく見つめている。永定県の円楼からは港は見えなかったから、楽しくて仕方がない。円楼も永定県の土地も大好きであった。だが、いつも「自分はいつかここを出てさすらうのではないか」という感覚が消えることはなかった。いつか自分はこの土地を去る日がくるのだろうと信じていた。

青望は船が好きであった。それも外国から来た船やこれから外国に行く船がことのほか好きであった。この船に乗れば見知らぬ言葉も通じないような異国に行けるのだと思うとめまいがするような不思議な気分になり、心臓が速く脈打つのだった。

近頃年上の修行僧から、自分たちの住む「地球」というものは球体をしていて太陽の周りを回っているのだということを聞いた。そんなことがあるわけがないと思う半面、球体であるなら一周したら同じ場所に戻ってこられるのだからぜひ試したいとも思い、まためまいのような感覚になったりした。いったいどれくらいの日数海を行けば「地球」を一周して戻って来られるんだろう? それはいったいどれほどの長さなのか……青望は自分の大きさがとても小さくなっていくような気がした。しかし、自分が小さくなっていく感覚は決して怖いものではなく、わくわくするような感覚であった。

寺の朝は早く夜明け前から起きなければならない。早起きに特に苦痛は感じてなかったが、いつも同じことが続くというのは苦手であった。農作業は時期によりやることは変わったし、作物も状態は常に変化した。それだけでなく寺の食べ物には肉も魚も卵もなかった。ここにきてわかったことは自分は「うまいものを食べたい人間なのだ」ということだった。食べたことのないようなものにまるで恋するような強い興味を持っていた。隣の広東省の広州市はこの国で最もうまい店が集まっているときいたとき、いつか広州市に行きたいと心底思った。

といっても料理人になりたいわけではない。作るより自分は食べたい人間なのだから。寺の生活は思ったほど苦痛ではなかったが、肉も魚も卵もない生活は長くは耐えられそうにはなかった。

〈未完 つづく〉

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