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半生を供養して、未来に繋げたいという話。

あるアーティストとの出会いが人生を変える、というのはまあよく聞く話かもしれないけれど、僕にとってはeiyaという一人のアーティストだった。今から15年程前(もうそんなに経ったのか…)、当時muzieという音楽サイトで活躍されていた彼の音楽は「新しく」、そして「面白かった」。学生時代は彼との対話の中で、音楽の捉え方を学んだように思う。僕の音楽に対するスタンスは、ここが始まりだった。多くのクリエイターが彼の音楽に憧れたし、そして僕は彼の音楽を世に届けたいが為に音楽プロデューサーを志す事になった(実現はしなかったが)。

大学院を卒業した僕は、当時研究職として教育委員会に在籍していた。一年間の有期雇用だった僕は、その後のキャリアも見出せないまま、仕事の傍でCDを作っていた。そのCDを即売会であるプロデューサーが買ってくれた。その彼の会社が求人出したので受けたら受かったので音楽の仕事に就くことになった。

しかし音楽の仕事をしている時の僕は、もう会う人会う人に心配された。精神的に厳しかった時にとなりのトトロを観たらなぜか涙がとまらなくなった。映画のラストで、お母さんがメイとサツキに気付くシーンで、作品としての隙の無さにどうしようもなく打ちのめされて呆然としたことを今でも覚えている。その事を友人に話すと更に心配された。

終電が続き仕事のミスも続き抗鬱剤を飲みながら這い蹲りながら一日一日を乗り切って、それでも身体は悲鳴をあげ遂には電車から降りられなくなり仕事を辞めた。

一日に16時間眠るようになり、音楽も映画も本も、何をやっても心が動かされることはなく、

布団の中で抗鬱剤の副作用である悪夢と毎日戯れていた。悪夢はしかし、自分の心の調整役でもあって、いくつかの悪夢の中に時々とても美しい景色が見えたりしたこともあった。そうして目覚めた時はとても気分が良かった。この時期は本当に辛かった。

貯金の底が見え隠れする中で焦り出し、なんとかせねばとバイトを始めて、なけなしのお金でランニングシューズを買った。

夜の森林公園をよく走った。毎晩2〜3kmくらいだろうか。そんな中で、どうしても企画をやりたくなって、CDを一枚作った。声をかけたアーティストは、企業にいた時に企画を通す事が出来なかった方だ。そうしてCDが完成すると同時に、鬱病も治った。後で考えてみると、所謂箱庭療法みたいなものだったのだと思う。

この頃は教師になるか、音楽の道にまた戻るか、とても悩んでいた時期だった。音楽を生業とする人に出会うと、ほんとうに肩身が狭かった。自分を幾ら言葉で取り繕ろうとしても、自分は負けたのだ。業界の厳しさに打ちのめされた弱者なのだ。逃げたのだ。そう思わずにはいられない。ルサンチマンをこじらせ、自らの欲動と適切に向き合う事も出来なかった。レコード会社をいくつか受けたけれど、面接は失敗。決定打に欠ける感は自分でもわかっていた。

そんな中で、企業時代に自分の残した企画の原案がCD化され、社内で表彰され、オリコンでも上位に入ったと、元同僚から話を受けた。嬉しい反面、やはり悔しかった。そのCDには僕のクレジットは無かったし、CDが僕の手元に送られてくることもなかった。僕は完全にいなかったことになっていた。まあ、当たり前だろう。でも、やっぱり、悔しかった。

結局のところ、僕は私立の女子校の講師となった。もともとなりたかった職でもあったし、講師なら時間は沢山あった。自主制作を続けつつ、合唱団にも入団した。お金は無かったが、色んな所で人脈も広がり、制作も楽しかった。 仕事も、給与は少なかったが充実していた。人と向き合うということについて基本から生徒に教えて貰った気がした。

次の企画はある時突然やってくる。あるアーティスト同士が、ツイッターでカプースチンの話題に触れている。この二人をメインに企画をしなければならない。そんな、義務感に駆られてCDを作った。企画をやるときは、今絶対にこれをしなければならないという直感が働く時で、別に誰かがやっていれば良いんだけれども誰もやる人がいないから僕がやるしかない、みたいなものがあると、割とうまくいく気がする。

制作スタイルも、企業へのルサンチマンから、企業ではなかなか出来ないようなやり方でいこうと、コーラス隊をオーディションで集める等実験的な事も随分やった。そういう方向性は今でも間違っていなかったように思う。

そのCDは2014年に発売して、今は2019年。およそ五年の間に僕は結婚して、三児の父になって、そして教員をやっている。

妻が第二子を懐妊した時は、無期限雇用がほしくてたまらなかったので、過去に無い程勉強した。試験も本気であった。1日目の面接試験ではあまり手応えが無かったので、その晩に4回オナニーした。笑い事ではない。こうして雑念を全て振り払い、完全なる落ち着きを取り戻して、2日目の試験は最高のパフォーマンスができた。その日のうちに合格を確信した。あとで分かった事なのだけど、その年は県で3名の枠だった。となれば試験結果的にはギリギリで、かなり危なかったようだ(本来ならA判定が2つは必要な所、僕は1つしか無かった)。

教員は、忙しいけれども、意味のあることをやっているのだという実感がある。僕はアーティスト主義者だと自負していたが、つまるところ、人間の持つ欲望とか、可能性とか、或いは呪いとか、そういうものに強く惹かれるようだ。だから、他者が心から望むものを見定め、諭し、より具体的な形で実現できるように支援していく。これが、僕にとっての教員の仕事である。

キャリア教育という観点でもこれまでの人脈を活かせる事がわかったし、現に協力頂いた方もいる。これまでの事はなるほど、こういう風に活かす事が出来るのだなと、手応えを感じた。

一方で、しかし、音楽である。音楽が作りたい。その想いは、この数年間絶やした日などなかった。ネタはある。しかし、仕事と育児に追われて、創作する隙間が、どこにも、ない。作品を作り続けてきた人が結婚を機にパタンと作らなくなるケースのその意味がよくわかった。子どもたちを寝かしつけて約十時半。ゼロ歳児はここからが本番だ。育児しながら創作している人がいかにすごいか、今なら身に染みて理解できる。

次第に、自分の時間をもつ事の出来ないことに焦り出し、体調も崩していった。主に自律神経が狂い出す。

これが現在である。このままではいけない。そこで僕は今年の目標を立てることにした。

今年は生き方を創る年にする。

やりたい事ができていないのは、不健康だ。いつ死ぬかもわからないのに、今我慢してどうするというのだ。たしかに仕事も育児も大変だ。しかし、あらゆるものについて優先順位をつけるのは間違えている。やらなくてはならないことは、やらなくてはならない。それと同じように、やりたいことも、やらなくてはならないことなのだ。やらなくてはならないことの全てをやれるように、自分の身体と自分の時間をマネイジメント出来るはずなのだ。

うまくいくかどうか、わからないけれども、ここで踏ん張り続けることができれば、歯車がうまくまわりそうな気がするんだ。

ということで、仕事始めである。雪散る東北より、未来をつくるのだ。

BGMは、eiya「RPG」
名曲なので是非聞いてみてください。 こちらから聞けます。
http://sound.jp/kugumo/download_page_A.html

#note書き初め


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