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補聴器と人工内耳どっちが良かったのか?

さらっと簡単に3回に分けて、自己紹介しましたが・・・。ここでは、私の聴覚障がいとコミュニケーションに触れていきたい。

聴覚障がいと一言でいうけれど、もう少し踏み込むとすればそれは難聴でもないし、ろうでもない。生まれつき難聴であるというのが一般的な症状である。

これは、生まれた時から耳が聞こえなかったというわけだか親に聞いてみた。本当にそうだったのか?と。

そしたら、詳しくはわからない。医師の判断で気付いた時は1歳過ぎてからだから今みたいに早期診断というのもなかったし、最初は赤ちゃんゆえの行動で気付きにくいといった私だったそうだ。

赤ちゃんって音に敏感すると大泣きする。でも私には、泣くことが少なかったらしい。そこに異変を感じた祖父母が診断を勧めたらしい。両親は息子のことを障がい者であるということは、考えたくなかったから無理もなかった。当時の背景は、早期発見や早期による障がい理解というものの療育制度などは充実していなかったからである。

医師から「耳がきこえないので覚悟が必要です。」と言われて最初は、ショックを受けたらしい。最近、私自身が色々と聞かれるよくある親の行動を実の親にも共感な経験をしていたんだということを知った。

次に人工内耳を勧めていたのか。と問いかけたら、あの時の医師はそういった知識がなかったようで何にも言わずにただ診断結果を受けて終わりだったという私だったので、人工内耳についてはあまり深く考えていない環境に恵まれていたという。それぞれの病院次第では、人工内耳の装着選択をするといった背景であり、同級生の中には2,3人程度の割合だった。

もし人工内耳を勧めることで強く普及している背景だったら、今の私はどうなっていただろうか。人工内耳による失敗に苦しんでいたかもしれないと思うと、補聴器というのは全くの抵抗は今感じていない。

人工内耳について、全日本ろうあ連盟が示す1つの声明がある。     「人工内耳に対する見解」(2016)の一部を引用すると、このような内容は、私の経験談からも納得のあることなので読んでいただきたい。

●正しい情報提供の上での選択の自由
 私たち全日本ろうあ連盟は、どの人も様々な言語を習得する権利を持っていると考える。したがって、例えば新生児聴覚スクリーニング検査経由で重度難聴と診断され、両親がきこえる人で音声言語の習得を望み、その手段として最初は補聴器で、次に選択肢として人工内耳が視野に入ることは自然なことだと考える。ただし、音声言語だけが言語であり、手話を使ってはいけない、つまり手話を否定するという考えを、医療側から保護者に伝えることがもしあるとすれば、このことについては人権の立場から反対を表明するものである。きこえない子どもにとって、きこえる子どもと同じようにきこえることは決してないのである。例えば、子どもが就学し思春期を迎える頃になると、「きこえるみんなが笑っているときに自分だけ意味がわからず困惑する」という負の体験を積み重ねてしまうことを意味する。どんなに早期発見されても、どんなに補聴器や人工内耳が進歩しても、きこえる人が多い社会で聴覚障害をもつ子どもが耳だけで安心して生きていけることはない。人工内耳を装着している人の装用閾値が30デシベル前後とは、「きこえる人と同じではない」ということを意味する。このため人工内耳装用児の中には、自分はきこえる人と同じだと思ってきたのに、本当は異なることに気づいてひそかに苦しんでいるという事態も実際に起こっている。
 いうまでもなく、きこえる世界の他にきこえない世界があり、そこでは手話が日常言語として使われている。私たちは、幼い頃、口話のみの教育で苦しみ、その後手話に出会って自分の本当の言語を発見したという強烈な経験を忘れてはいない。重度難聴はもちろん、本来は聴力レベルに関わらず多くのきこえない・きこえにくい子どもたちやその保護者(きこえる人)に手話でのコミュニケーションも有力な選択肢であることを伝えたい。   
 しかし、社会環境の整備が未だ道半ばで、手話も言語であるということが十分認知されているとは言い難い。現在、新生児聴覚スクリーニング検査後に診断されて間もない聴覚障害のある子どもの保護者に、手話の世界もあることを積極的に伝えていく方法を模索しているところである。     (人工内耳に対する見解:論点 https://www.jfd.or.jp/2016/12/01/pid15873)

人工内耳装着する方々と多く話すことあるが、中には肯定派もいれば否定派で失敗だったとする声も分かれていた。ただ一つ、共通する発見は何か。

手話言語というコミュニケーションは、いずれ必要として身に付けていく。

生活する上で、やはり多様な意思疎通の一つとして情報アクセス権をもつことは大事である。だからこそ、手話言語と出会ったときに自己アイデンティティの中で考えさせられるんだということの話は、今の社会において一つの障がい認識の重要性である。

ただ残念なことに私が懸念されることは、ろう学校に通う人工内耳装着する割合が年々、増加しているということである。母校にも生徒数の減少=人工内耳装着者の数が逆転しているという情報が入ってきた。私たちが当時見られる実態(補聴器または付けていない児童生徒が多数)は、もう薄くなってきたということ。これが教師の専門性の変化、高度化しているという課題である。

今どきの教職員は、失礼ながら人工内耳装着に対する理解や知識が浅い。そこで社会経験がどうなるかも分からない中で、指導するという自己アイデンティティに関することや自立における専門性(エンパワーメント)が不足ということはまだまだしっかりと学ぶことがないので結局は、卒業後の生徒自身の努力に任せられなくてはならない。

私は、このようにしてほしくない。しっかり支えるべき側の環境をもう少し専門性高く充実していかないといけないと考える。

・補聴器と人工内耳の選択→医療と教育の連携下で情報提供の充実

・手話言語という意思疎通がある理解促進→言語条例および言語法による行政(教育委員会)など、職員の研修内容を改善し、充実し専門性を向上するように整備していくべき。

・自己アイデンティティの自覚→障がい者本人の学ぶ環境を充実する。義務教育の間に「デフフッド」を通した自立の指導、高等教育機関においてはエンパワーメントを身に付けていく取り組みを促すといった学びの高度化が必要。

また3つともこれらは、卒業後に様々な苦労経験をした当事者団体(地域協会、手話サークルなど)の先輩方との社会資源(リソース)を連携させてより情報提供を続けていく努力がない限り、これらを受けるべき聴覚障がいをもつ人間の気付きは自分から集めていくことが大変である。むしろ生活することで幾つも困難にぶつかってしまうのは、共生社会に正しい生き方とはいえない。

私はまず、このことをこれからも自身の生い立ちを振り返りながら書き留めていきたい。補聴器を付けることで、自分は良かったと思っている。