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『君たちはどう生きるか』というお守り

ジブリの新作『君たちはどう生きるか』を公開後数日で見た。

いまでは、ストーリーやメタファーの解読が十分過ぎるほど溢れている。
自分もそういうものを甘いチョコレートを食べるように楽しんでおり、改めて言うことはない。ここでは、自分の思ったことだけを簡単に書き残しておこうと思う。

『君たちはどう生きるか』
これは啓発ではない。
特大の存在肯定だ。

端的に言って、『君たちはどう生きるか』はおもしろくなかった。
それは説教くさいからではない。
ストーリーは初めからあまり気にしていなかったので、期待したようなアニメーションがあまり見られなかったという点でおもしろくなかったのだ。

しかし、しばらく経って冷静に思い返していると、最高のアニメーションが断片的に思い出される。

冒頭の10分は誰もが舌をまく、完璧な導入だったと思う。
主観視点を織り交ぜながら、人と熱気をかき分けて母親の元へ駆け寄る蜃気楼のようなシーンは言わずもがなで、さらに眞人が階段を駆け上がるシーンが完璧にジブリ印だった。
現代の住宅に慣れている身からすると「嘘やん!?」と思うような急勾配な階段を、(だからこそ)手足4本を使って駆け上がる。
それはサツキとメイ、あるいは千尋のような躍動感といえば楽しげにきこえるけれど、アシタカを猛追するタタリ神のようだったといえば不気味にも見える。躍動感が生き生きとした生命力を通り過ぎて不気味だった。

それはアオサギについても同じで、丁寧に描かれる所作は美しさを超えて不気味だった。

これまでジブリでは、生き生きと、そして美しく描かれてきた生き物たちの描写が総じて不気味に転じていた。『千と千尋の神隠し』などでは、見たことのない神々や従業員は不気味でありながらも、生き生きと躍動感あふれる形で描かれていた。ストーリーだけ見れば不気味な映画に多幸感を感じるのはそのためだと思う。
『君たちはどう生きるか』に多幸感の微塵もなかった。カタルシスも、全くなかった。
主人公の眞人(=映画を見る観客)も含めて、基本的に生き物は不気味で、よくわからない話が続き、ほんの一瞬だけ圧倒的な躍動感と想像力で世界が輝く。しかし、それらは持続することなく、一瞬にして不気味な世界に飲み込まれる。

多幸感が不気味に飲み込まれるだけではない。アニメーション的想像力が不気味そのものでもあった。
例えば、眞人が初めてアオサギと対峙するシーンでは、「おいでなされ」というアオサギの言葉と共に池を覆い尽くすほどのコイ?が水面から口を出して「おいでなされ」と合唱し、茶色くブニブニした大量のカエルが眞人の身体をよじ登り覆い尽くそうとする。
このシークエンスがこの映画の中で最もおもしろかった。

物語の結末で、眞人はフィクション世界に籠ることなく、戦争が激化しその後も苦しく嫌なことが溢れている世界で、友達とともに生きていくことを選ぶ。しかし、それはフィクションと決別することではなかった。フィクションの世界からほんの小さなお守りを持ち帰ることで、この現実を生きていくのだ。

眞人にはいろんな人のメタファーを見ることができるだろう。
もし、眞人を宮崎少年だと見たら、フィクション世界から出てきた後の眞人について僕たちはよく知っている。数々のアニメーションと想像力を生み出した、あの宮崎駿だ。
だとしたら、宮崎駿は「どう」生きたのか?

その解答は、天才的な才能を発揮したのでもなく、ヒットメーカーになったのでもなく、数々の賞を受賞したのでもなく、ただこの(真正面から見ると理不尽で苦しいことばかりな)現実を、絵を描くという想像力によって「おもしろがって」生きてきた、ということになると、僕は思う。

自分の存在でさえ不気味なこの世界を、絵を描くことでおもしろがって生きてきた。それは圧倒的な美しさと楽しさを一瞬もたらしてくれるけれど、すぐに不気味なものに飲み込まれてしまう。
宮崎駿はその一瞬にかけて、そして、それを味合わせてくれる人だった。
それを見た観客は、一瞬の世界の輝きというお守りを持ってこの世界に出ていくはずだった。

宮崎駿があるお母さんと話していた時のこと。そのお母さんが、自分の息子がトトロのことがとても好きで、毎日のように見ているという。子供が夢中になるような作品を作ってくれたことへの感謝の旨を伝えると、宮崎駿はショックを受けたのだとか。
彼はトトロを見た子供に、本物の森へ出かけて欲しかった。
しかし、トトロは子供を一瞬に閉じ込めた。

ジブリのこれまでの作品と『君たちはどう生きるか』を通して持ち帰ったお守りこそ、「世界のおもしろがり方」とその「楽しさ」、そして「自分で、生きるんやで」ということだった。

お守りを手にした観客は、ジブリの、宮崎駿のフィルターで世界をおもしろがるのではない。
それぞれ「自分の」フィルターをちゃんと作って「自分で」おもしろがるのだ。

これは啓発ではない。
特大の存在肯定だ。


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