真昼の深夜

大学生です。 日常で疑問に思ったことを書いています。 Podcast番組『あの日の交差…

真昼の深夜

大学生です。 日常で疑問に思ったことを書いています。 Podcast番組『あの日の交差点』とWeb版『あの日の交差点』をやっています。 https://linktr.ee/ThosedaysJunction

最近の記事

非日常とは、実のところ電車で1時間くらいのところにある。

ホームに降りると、切符のもぎりをする駅員が見えた。有人改札だ。 どこにつながっているのかわからない線路の途中で降りたものだから、頭の地図に現在地だけがプロットされている。 暑いね、田舎だ。と言いながら駅員さんに切符を渡した。

    • 『君たちはどう生きるか』というお守り

      ジブリの新作『君たちはどう生きるか』を公開後数日で見た。 いまでは、ストーリーやメタファーの解読が十分過ぎるほど溢れている。 自分もそういうものを甘いチョコレートを食べるように楽しんでおり、改めて言うことはない。ここでは、自分の思ったことだけを簡単に書き残しておこうと思う。 『君たちはどう生きるか』 これは啓発ではない。 特大の存在肯定だ。 ※ 端的に言って、『君たちはどう生きるか』はおもしろくなかった。 それは説教くさいからではない。 ストーリーは初めからあまり気に

      • ガールフレンドと江戸川でも散歩したらどうなの?いないの?

        兄の家から奪還してきた『水曜日は働かない』を読み返していた。 『水曜日は働かない』は、(虚構の)闘争と傷の舐め合いに無意識に放り込まれるSNSをはじめとする情報環境下において、いかに主体として生きるかという問いを宇野常寛が実践した記録である。エッセイの形をとった、恋愛リアリティーショーやドラマ、映画の批評を通して社会へと目をむける。 一度読んだ時には、それぞれ独立したエッセイのように楽しんだ。今、もう一度読み返してみると、それらに通底するものを感じた。 この文章は、『水曜

        • 世界を理性で問い詰めると、感性が開ける

          ※誰かに送るために書く方がなんだか書きやすいということに気がついたので、誰かに向けて書くテイでメモを残していくことにしました。 池田晶子の『暮らしの哲学』を読みながら帰省したんですよ。 やっぱりこれは文筆家としての池田晶子の最高到達点だと思うんですよねぇ。 池田晶子の著作を色々並べて読んでいると、 それぞれ全然文体が違っておもしろいんですけど、『暮らしの哲学』が一番あたたかくて良いです。池田晶子を読んでいる時は、他のいかなる読書体験ともなんだか違うんですよね。 池田晶子

        非日常とは、実のところ電車で1時間くらいのところにある。

          あれもこれも、ほんとの自分

          ※誰かに送るために書く方がなんだか書きやすいということに気がついたので、誰かに向けて書くテイでメモを残していくことにしました。 最近、会う人や場所によってそこにいる自分の像が全然違うなぁとより強く感じるんです。 でもどれもほんとの自分なんですよ。 真面目なことを考えて文字を打ってるのも、いざ面と向かって話してると「なんかこういう話する雰囲気じゃないなぁ」と思うのもほんとの自分なんです。 外で真面目そうに振る舞ってるのも、家ではだらしないのも、です。 まあそういうのをペル

          あれもこれも、ほんとの自分

          図書館の電子書籍ページに飛ぶショートカット作ったら最強になった

          ※誰かに送るために書く方がなんだか書きやすいということに気がついたので、誰かに向けて書くテイでメモを残していくことにしました。 うちの住んでいる地域の図書館には電子書籍の貸し出しサービスもあるんですけど、kindle感覚で読めるようにそのページにワンタッチでアクセスできるショートカットを作ってスマホの一番触れやすいところに置いてみたんです。 これでまあ最強になったんですけど笑、面白いことに気がついたんですよね。 スマホってものすごく快楽的じゃないですか。 「調べ物をしたい

          図書館の電子書籍ページに飛ぶショートカット作ったら最強になった

          20代はMomと共にある!

          この文章をもとに、Podcastで話しました。 時代の空気をキャプチャーしながら、同時に自分の心も照射してくれているような気持ちになるアーティストがいる。 ある人にとってそれは佐野元春であり、ある人にとってそれは小沢健二であり、ある人にとってそれは七尾旅人であるかもしれない。あるいは…。 歌う言葉に共振しながら、打ちひしがれ、同時に救い出される。 僕にとってそれは、Momなのだ。 2021年。 少しずつ聴く音楽の幅が広がっていおり、いろいろ音楽を掘っていた頃。 YouT

          20代はMomと共にある!

          2022年は「興奮」と「身体性」の年だった

          今年考えてきたことを、ポッドキャストと記事を並べながら振り返ります。 これは個人的、2022年のパースペクティブの記録である。 2020-21年、コロナ禍と一人暮らしの開始という合わせ技によって、究極の孤独に陥った。なんとかエンタメやら本やらに助けを求めるけれど、世界が手からすり抜けるような虚無感と宙吊り感があった。ぎりぎり言葉と思想に助けられてここまで生きてこれた。この時期に、それまでより本を読むようになったのは、生きるためだった。 いろんな読書体験があるけれど、このと

          2022年は「興奮」と「身体性」の年だった

          『ファスト教養』の問題は、孤独とどう向き合うかという問題だと思う

          1.興奮に対してなすすべがないここ最近はとにかく頭が回らなかった。 ずっと眠たいしあらゆる活字は目を滑る。 何も考えられないし、知的好奇心もあまりない。 やらないといけないことだけが溜まっていく。 やっと頭が冴えてきたと思ったら、逆に飛ばしすぎてめまいを起こし、電車を途中下車して視覚と聴覚と触覚が失われていくなかでなんとか耐えるもバイトには行けなくなる始末。 視界は半分くらいしかないけれど、やっとのことで吐き気が少し治まってきたので水を飲もうとしたら、腕が意図した高さまで上が

          『ファスト教養』の問題は、孤独とどう向き合うかという問題だと思う

          他者と繋がることではなく、他者を想像することで、孤独を乗り越えるーーBUMP OF CHICKEN 『Small world』を聴いてーー

          前回、『 セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである 』ということについて書いた。 何も、これまで全く セカイ系 について考えてこなかったわけではない。 なぜならば、長らく愛聴している BUMP OF CHICKEN が、セカイ系という切り口で語られることが多かったからだ。 しかし、セカイ系の価値観が全くわからない自分にとって、セカイ系的なBUMP OF CHICKENの歌詞はいまだによくわからない。 よくわからないのは、君と僕が世界の全てになる、みたいなこ

          他者と繋がることではなく、他者を想像することで、孤独を乗り越えるーーBUMP OF CHICKEN 『Small world』を聴いてーー

          セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである

          セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである——— 1ヶ月ほど前、セカイ系についてよく考えていた。ある程度、切り口と突破口は見つかったものの、完結しなかったので言葉にしてこなかった。(あまり中途半端に滅多のことを書くと、よくないかと思って…) そして、思ったより問題は大きく、勉強しないといけなさそうな分野や書籍は多岐に渡り、とても1ヶ月1年やそこらでは完結しそうにないことがわかったのだ。 そこで、ここでは未完成なものを断章として残しておこうと思う。 いつか

          セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである

          奇奇怪怪明解事典を聴きながら東京を歩いていたら、『海がきこえる』に夢中になってた

          東京を歩いた。 とにかく歩いた。 普段から出不精で堕落した生活を送っている大学生にとって、1日で歩ける量なんて知れている。 1日2万歩が限界だった。 新しい街を歩くときはなるべく耳で、そこで鳴っているを音を聴きたいので、イヤホンはつけない。 五感とはよく言ったもので、耳を塞ぐだけでぐっと、その土地を歩いている実感を失う。 一方で、疲れたときやつまらない道に入ってしまったときは、音楽やラジオに歩を押し進めてもらう。 この日は、浅草駅を降りてすぐの浅草文化観光センターを拝

          奇奇怪怪明解事典を聴きながら東京を歩いていたら、『海がきこえる』に夢中になってた

          なんとなく楽しくて、なんとなく楽しくない日々

          ※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もたくさん掲載しています。 前回、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』と乃木坂46の『10th YEAR BIRTHDAY LIVE』によって提起されたサプライズとの向き合い方について考えたところ、「瞬間的な快楽」というキーワードに行き着いた。 私はここのところ、ずっと自分は興奮できることを探しているのではないか?と思うようになってきた。

          なんとなく楽しくて、なんとなく楽しくない日々

          「瞬間的な快楽」への態度

          ※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もたくさん掲載しています。 マルチバースというサプライズ劇場を背に、心だけ座席に置いてきてしまったような気がした。 GWの唯一の予定だった『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス(以下、MoM)』を見終えた私は、なぜか心と体が落ち込んでいた。しかし、一体何に落ち込んでいるのかがわからない。心と体が不一致で、まるで感情がなくなったかのようだった。

          「瞬間的な快楽」への態度

          大失敗はこの身で確かめさせてくれ

          ※Instagramに書いた文章の転載です。noteやPodcastやwebサイトと違って知っている人たちが見るInstagramはいつも、向き合い方を考えさせられるのです。 塩谷舞さんの運営するウェブメディア「milieu(ミリュー)」に掲載されているエッセイ「美しくあること、とは」がとてもおもしろかった 塩谷さんの著書『ここじゃない世界に行きたかった』に載っていたので最近はこのことばかりを考えている。自己愛と自愛が、自己卑下と慎ましさが混同されてしまう世の中…。 この

          大失敗はこの身で確かめさせてくれ

          「目的なき手段」あるいは、「わたくし、つまり Nobody」

          ※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もたくさん掲載しています。 春休みの一日それは突然やってくる。 日中は晴れていると基本的に機嫌が良い。今日も外に出て、公園を転々と散歩しながら本でも読もう、とカーテンを開け、可能性で広がった世界に気持ちが浮き足立つ。この春休みになってから、よく歩いたり走ったりするようになったおかげで、この街のことが段々と好きになってきた。 例えば、こんな春休みの一日を送った。

          「目的なき手段」あるいは、「わたくし、つまり Nobody」