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巣鴨を「おいしい観察。」 ~コミュニティには真ん中が必要だ~

「おいしい観察。定例フィールドワーク」の第三回目、7/2の日曜に巣鴨の回を実施しました。梅雨間の晴れで非常に暑かったんですが、朝顔市と重なったこともあってかにぎわい多く、観察甲斐のあるフィールドでございました。気付きのメモを書いてみます。

とげぬき地蔵尊が巣鴨を巣鴨たらしめている。

まず観察したのがとげぬき地蔵尊と呼ばれる高岩寺。三方に入口があり、中のベンチではおじいちゃんおばあちゃんだけでなく、親子連れも何をするともなく座っていたり、自分の悪いところを柄杓で洗うとよくなると言われている洗い観音には常時20名くらいの列ができていたりで、人の往来がとても多い。朝顔市と、それに伴ったフラダンスとかストリートダンスの発表会があったりとかで普段より人が多かったのだと思うけど、それにしても人が自由に行き交いする空気はいい感じだなと思った次第です。巣鴨地蔵通り商店街のちょうど中ほどに位置する高岩寺が、商店街の人々のコミュニティとして機能してるなあこれは、と感じた次第でございます。

おじいちゃんはスマホなんかいじらない

あと感じるのは、時間がゆっくり流れているような感覚。高齢者が多いためか、座っている人のほとんどがスマホをいじらないわけです。そう考えると、人が感じる時間の流れって、その場にいる他の人から発される体感時間というか、焦燥感というか、そういうものを敏感に野生動物のように感じとって、忙しい人のそばにいると時間の流れが速く感じられるのかもしれないと思ったわけです。お年寄りはベンチに座ってても、なーんにもしないでぼーっとしている。それがまたよかったわけです。境内の幸福だんごの売り子のおばあちゃんに話を聞いても「何十年も毎日来ている人がほとんどだから、なにかしなくっちゃーみたいな感じはあんまりない場所だよー」といっていて、用がなくてもそこにいていい場所、っていうのは貴重なのかもしれないと思った。

コミュニティには「真ん中」が必要だ。

ここで転じて、巣鴨がお年寄りたちにとって「コミュニティ」として機能している理由が、高岩寺に内在しているなあと思ったわけです。仮に自分が自治体から「この町をひとつのコミュニティにしたいから、なにか企画をしてほしい」と言われたとして、巣鴨から何が学べるだろうか?という観点で考えてみてみたんですね。自分としてはこんなところが学びだったなあと思います。

✓座れるって大事
巣鴨は高岩寺はじめ、「タダで座ってていい場所」がまあまああるわけです。店の軒先のベンチとか、お茶屋さんの店先とか、いろんなところに。そこに、お年寄りが集まってくるんだよね。高岩寺の目の前にタリーズがあって、そこは比較的若いママとかが入っていたけど、お年寄りはほとんど入っていかない。東京って「座るだけで金がかかる街」だなとふと思ったわけです。前回代官山蔦屋を観察したときに感じた「ここにいる人たちは、日本一気取った”ただ座ってる時間”を楽しんでいる」とうがった考察もしましたがw、それの真逆。座れるだけで、人はある程度集まると思う。翻ってコミュニティ論としては、「何もしなくてもただそこにいるだけでいい」という存在を認めて居場所を創ってあげる、ということが実は裾野を広げて人の輪を創っていくのには大切なのだろうなあと。社会心理学でいうところの「社会的包摂」はまさにこれで、これはリアルだろうがオンラインだろうが一緒かなと思います。
✓入口が多方向に開けている
高岩寺は入口が多方向にあって、とっても出入りが自由な開けた空間だったなあと。入口が1つしかなかったらその中の空間は「閉じた」感じになると思うのですが、いくつもあることがあの場を「部屋」のような閉じたものではなく「広場」のような、ゆるやかに仕切はあるけれどだれでもウェルカムな場所にしていると思ったわけです。で、中は「何をしても、何もしなくてもいい」空気があり、イベントスペースがあってゆるいクオリティの催しものが市民参加型で繰り広げられる。その開けていて自由でいい空気が、コミュニティの真ん中には必要なのかなと感じました。
✓日課性・反復性のデザイン
お年寄りの会話を何個か盗み聞きしたんですがw、やっぱり「あそこにいけば誰かに会える」と思わせる場に高岩寺がなっているのが素晴らしいと思ったわけです。だから家を出るし、歩くし、人と話すし、それが健康長寿につながる。でももう一個の決め手はそこが「寺」であることだなと。お参りをするという、歴然たる日課性・反復性がデザインされているので(結果論だと思いますが)、それも相まって、「お参りという大義で毎日行き、そこで友に会う」という行為が、さらに健康増進につながり、それを「ご利益」だと錯覚wすることで、さらに日課性・反復性が強化される。報酬がそこにあることが反復を強めるっていうのは基本的なことだけど、よーく考えると巣鴨という土地柄と高岩寺という存在が完璧だなと気づいた。「どうやって、毎日見たくなるようなメリットの設計をするか」はコミュニティのキモだなと思いました。
✓消費行動は真ん中に置かない
じゃあその高岩寺を取り巻く人々はどこに何でお金を落としているのか?を見てみると、びっくりするほど、お金使わないんですよ笑 タダで座っていられてそこでお友達に会えるんだから、わざわざお金使わなくても成立しているような感じ。それも実はすごい大事なんだろうなと思ったわけです。まず消費行動ありき、というコミュニティの設計にしてしまうとおそらく「その消費行動ができる人とできない人を隔てる」という力学がめっちゃ働くんだろうなと。代官山蔦屋だって、普通の本屋と極論品揃えは変わらないのにあそこの店内に座るためには400円をスタバに払わないといけないわけで、その時点で人の選別が相当にかかってると思うんですね。巣鴨は、正直代官山蔦屋よりも全然、ダイバーシティ度は高かったです。消費行動による人の選別がほとんどないからだなと。もちろん「無目的」だと人を求心することがそもそも難しいのでコミュニティが形成できないじゃん!というのはごもっともで、そこは前述の「お参り」が機能しているんだろうと思います。コミュニティの真ん中を「消費行動を核にした形成にしない」というのは実は大事なポイントだなと思ったなあ。


そんな感じで、個人的にはめっちゃ、コミュニティの勉強になりました。おいしい観察。での観察対象をコミュニティ論に寄せると、ものすごい学びが起こるなと思ったので、今後の定例フィールドワークの場所選びの一つの観点にしていけたらと思いました。今回の学びのコアはやっぱり「居場所」だなと。干渉がなく自由でいられるという点と、自分の存在への認識がちゃんとそこにあるという安心という点の、過不足ない両立が、実はとっても得難いんだろうなと思ったわけです。自由だけ無視だとクラスのいじめみたいになるし、めっちゃ見てくれてるけど自由がないと牢獄になるし。高岩寺にいる人たちは、「ぼーっとしててもだんご食ってても何時間いてもいいけど、境内のだんご売りのおばちゃんは毎日見ている」という、絶妙な距離感だなと思ったんですよね。コミュニティが、その構成員一人ひとりをどういう風に扱うのかのデザインの大いなる学びになりました。

現場からは以上です!
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高岩寺の広場ではフラダンスの発表会。
こういう催しがコミュニティを強化する。

座れる場所に人は集まってくる。

幸福だんご。境内から毎日、来る人を見ている。

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