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幸せの尺度としてのビール

「眞山さんにとって幸せって何ですか」
人生相談を兼ねてお酒を飲んでいると、だいたいこういうちょっと青臭い質問が出てくる。

少し前の酒席でもそうだった。

私はあの人が好きなのかどうかわからない、そしてあの人が私を好きなのかもよくわからない。だから自分は幸せだと感じられない。
ねぇ、眞山さんにとって幸せって何ですか?

(お酒を一緒に飲んだ人)

そんな問いに対して、ちょっとふざけて「幸せとはビールが美味しいことだ」と答えたのだが、意外と良い答えだった気がしてきたので後付けで理屈を付け足してみたのがこの記事である。

誰かにとって救いになれば超うれしいし、そうでなくても「うけるね」を押したい気持ちになってくれればそれも結果オーライ。

①幸せの尺度は「揺るぎないもの」でなければならない

上記のような相談を持ち掛ける人の多くは、家族や恋人に慕われていることや彼らが笑顔でいてくれることを幸せの尺度に用いることが多い。そういう人はたいてい自分のことを「恋愛体質」と呼んだりするが、とどのつまり他人への依存度が高いのである。

周囲の人がニコニコしてくれていれば確かに自分が幸せだと感じる場面は多いのだろうが、この尺度の最大の欠点は「他人がたまたま他の要因で不機嫌」であるときに本来自分のせいじゃないのに「私がいけないんだ」と思ってしまったりすることがちょいちょいあることだ。

他人が幸せならまだしも、他人が不幸を抱えている時につられて不幸になるという構図は好ましくない。

その点、ビールは良い。

よほどのへんな店でもない限り、日本国内の居酒屋ではほぼ同じクオリティのビールが出されているし、スーパーに並ぶ缶ビールも同様だ。日本のビール会社の流通網の素晴らしさには、ほとほと感服させられる。

ビールの均一な品質の高さには「それを美味しく感じているうちは自分は幸せだ」と物差しをゆだねるにふさわしい揺るぎなさがある。

②幸せの尺度は「自分が決めるもの」でなければならない

①では他人本位の尺度で自らの幸せの度合いを測ることを否定してみたが、ほかによくあるのが「お金」やら「社会的地位」を幸せの尺度とするパターンであろう。

この尺度の欠点は、「あいつはもうマネージャーに昇進したのか」と他人との比較で自分の幸福度を測らなければならなくなることや、他人に勝手に自分のことを「でも公認会計士だったら収入も多いし、さぞかし幸せでしょう」と断定させてしまう可能性が高いことである。

だが、幸せかどうかは完全な主観なので、自分で決めればいいし、他人が決める筋合いはない。ましてや隣の人と自分のどちらがより幸せかなんて考えてはいけないのだが、お金や地位という尺度はそれを許さないのである。

その点、ビールは良い。

ビールは何も押し付けないし、何も決めつけない。ただビールとして存在しているだけだ。それを呑んで「うまい!」と思えたら幸せだと、シンプルに自己判断ができるし、そこに他人の介入する余地はない。

最高じゃないか。

③幸せの尺度は「様々な要因を総合的に織り込んだもの」でなければならない

「あなたにとって幸せとは何ですか」と聞かれたとき、仕事が充実していること、と答えれば家庭を蔑ろにした感が出てくるし、家庭が円満であること、を挙げればキャリアアップを後回しにしている感が出てくるし、じゃあ両方、と言い始めると「でも結局健康が一番だよね」と新しい軸を際限なく用意する羽目になる。

だから、幸せかどうかを自分で判断するための尺度としては、たった一つで様々な要因を包摂できるものを用意したほうがいい。

その点、ビールは良い。

仕事・プライベート・趣味・健康・一緒に飲む人…いろいろなものが一つでも欠けると、それだけで「うまい!!」の度合いが色あせる。同じビールなのになんでこんなに変わるの?と思うよね。

意識・無意識を問わず、自分が現状に対してどれだけ満たされた思いでいるかを、ビールはその美味しさだけで実に的確にフィードバックしてくるのである。

…もちろん、これは僕の個人的な価値観なので、全員にビールを幸せの尺度として用いよ、と言いたいのではないが、僕にとってのビールに相当するような物差しを今持ち合わせていない方で、ビールが苦手じゃない20歳以上の方は、ためしにビールを幸せの尺度として使ってみると良い。

ちなみに

幸せの尺度をどこに持つか、という考え方は、七つの習慣という大ベストセラー本でも「原則中心の生き方」という項目で紹介されている。詳しいことは同書を読んでもらえたらと思う。

また、企業経営でもKPIをどこに持つか?という文脈はとても大事なので、いずれその切り口でも語ってみたいと、思ったり思わなかったり。

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