【オリジナル作品第1弾】


“カタカタカタカタカタ…”

“カタカタカタカタカタ…”


真っ暗な部屋に、キーボードをタイプする音が響く。
パソコンの液晶画面が放つ光が、少年の顔を青白く浮かび上がらせている。


『アイツだけは、絶対にユルサナイ』

『コロシテヤル』

『コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス…』


少年は、キーボードが壊れそうなほどの力を込めて、その単語を繰り返しタイプする。

同じ文字列で埋め尽くされた液晶画面に、新しい書き込みが表示された。

『よろしければ、お手伝いしましょうか?(^_^)』


画面を見つめる少年の口元が、僅かに綻んだ…。




一ソウル中央警察署“少年課”一

「…以上が本日の業務連絡だ。今日もよろしく頼むぞ! 」
少年課課長ホン・ギョンスの声に、その場の刑事達が敬礼で応える。

各々の仕事に取り掛かる部下達を見ながら、ホン課長はその中の1人に声を掛けた。
「ユジュン、ちょっといいか。」

呼ばれた男が、読んでいた資料から顔を上げる。
ホン課長は彼に見えるように、煙草を吸うジェスチャーをして上を指すと、先に部屋を出て行った。


ユジュンは資料を片付けると、隣のデスクの人物に声を掛ける。
「ソンホ、戻ったらパトロール行くぞ。準備しとけよ。」
「了解しました。シン警部補。」


「…だからぁ、そろそろその堅苦しい呼び方やめろって。先輩とか、なんなら兄貴って呼んでもいいんだぞ?」
そう言いながらユジュンがニカッと笑いかける。
「いえ、結構です。シン警部補。…早く行かないと課長がお待ちでは?」
顔色ひとつ変えず冷静に返すソンホに、
「…はぁー、全く、可愛げのないやつだなぁ。…すぐ戻るから、待っとけよ。あ、トイレとか済ませとくんだぞ。」
よせばいいのに冗談交じりに言った最後の一言に、ソンホが不快そうに眉間に皺を寄せる。

「うっ…そんな怖い顔するなよ。冗談だよ冗談。」
苦笑しつつソンホの肩を叩くと、ユジュンはその冷たい視線から逃げるようにそそくさと部屋を出た。

「どうだ?カン・ソンホは。」
屋上に置かれたベンチに腰掛け煙草をふかしつつ、ギョンスが尋ねる。
ユジュンは無言で手すりに凭れて煙草に火をつけると、一口吸い込んで大きく息を吐き出した。
「ふ〜〜〜〜っ…」


その様子を見てギョンスが笑う。
「どうした? 少年課歴10年のお前でも、最近の若者は手強いか?」
「…あいつが配属されてまだ1ヶ月だぞ? 見てろよ、今に最強のバディに…」
「その割には全く距離が縮まっていないように見えるけどな?」
「くっ…。ホン・ギョンス…、お前ってほんっとに昔から嫌味な奴だよな。」
溜息をつきながらそばに置かれた灰皿で煙草をもみ消すと、ユジュンはどかっとギョンスの横に腰を下ろす。

「まあ、優秀なのは間違いないが、…危なっかしいな。」
先程までの軽口を叩いていた空気とはまるで違う、鋭く厳しい空気を纏ったユジュンがそう呟く。
「ほう? どうしてそう思う?」
同じく真剣な表情になったギョンスが聞く。

「あいつの、自信満々な態度が気になる…。」
「そりゃ天下のキャリア組だからな。自信があって当然だろ。」
「まあな。ただ『自信』と『慢心』は紙一重だ。あいつのそれが慢心なら、いつか痛いしっぺ返しを喰らいそうで、危なっかしいんだよ。」


「うーん…。まあ、そこらへんのフォローも含めて、“少年課最強の男”を教育係にしたんだ、よろしく頼むよ。なっ。」
ギョンスがユジュンの肩をぽんぽんっと叩いて立ち上がる。

「ほんっとに嫌味な奴だな…。コノヤロっ。」
ユジュンが座った体勢のまま繰り出した蹴りを、ギョンスがサッと躱す。
「お前、俺が上司だってこと忘れてないか?ん?」
「お前こそ、バディ時代俺が何度お前を助けてやったか、忘れてないか?ん?」
お決まりのやり取りに、2人は軽く笑い合う。


「さてと、そろそろ行くか。」
ユジュンも立ち上がる。
「課長のご期待に添えるよう、しっかりと現場の厳しさを教育させて頂きますよ。」
「よしよし、頼んだぞユジュン君。」
ふざけた調子で言い合うと、2人は屋上をあとにした。



「あっユジュン先輩、おかえりなさいです!」
自分のデスクへ戻ってくると、後輩のハン・ジウが屈託のない笑顔を向けてくる。

「すぐ戻られるかと思って淹れたんですけど、少し冷めちゃったかもです。淹れなおしますねっ。」
そう言うと、ユジュンのデスクに置かれたコーヒーを下げようとする。
「あーいいよいいよ、すぐ出るし、冷めてるくらいでちょうど良い。ありがとな。」
ユジュンはコーヒーをぐびぐびと一気に飲み干す。

「っふー、ごちそうさまっ。」
そう言ってニカッと笑いかける。


「…聞いた?カン・ソンホ。あんたもちょっとはユジュン先輩を見習えば?」
ユジュンの空になったカップを受け取りながら、ジウがソンホを恨めしそうに見る。

「自分は、コーヒーを淹れてくれと頼んだ覚えは無いので…。」
資料に目を落としたまま顔すら上げないソンホに、ジウが地団駄を踏む。
「そういう事じゃなくて! 人の厚意は素直に受け取ればいいでしょって言ってんの!」
「なぜ僕があなたから厚意を受ける必要が?」
「んなっ、なっ…!」
ソンホの取り付く島もない態度に、ジウが言葉を失ったところで、黙って様子を見ていたユジュンが割って入る。


「よーしよし。そこまでにしとこう。ジウの気持ちはよく分かってるから、な。とりあえずは仕事に戻れ。」
まだ怒りが収まらない様子の彼女を宥めるように、ユジュンが優しくその肩を叩く。
「うぅ…了解です。」

ジウが席に戻るのを見届けてから、ユジュンは手を一度大きく叩くと、ソンホに声を掛ける。
「さて! 俺らも仕事だ仕事。行くぞっ。」


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「なあ、ソンホ。お前、疲れないか?」

いつもの巡回ルートに向かう道中、無言で運転を続けるソンホにユジュンが問いかける。

「はい?」
「いやぁ、この1ヶ月間、ずっとその調子だからさ。隙を見せないというか、いつもガッチガチに気を張ってる感じがする。」

「…刑事に隙や気の緩みがあってはならないと思いますが?」
冷たい声で答えるソンホに、ユジュンが困ったような笑みを浮かべる。

「んー、…まあ確かにそれも正しい。だけどな、俺たちも人間だ。四六時中完璧でいるなんて無理な話だ。だから、抜く時は抜いていいんだぞ? 仲間の前でぐらいもうちょっと気楽に…。」
「自分は、1年間の現場経験を積むために出向しているだけです。任期が終わればもう会うこともないでしょう。ゆえに皆さんと『仲間』になるつもりはありません。」


「ふぅー…。そうか、分かったよ。まっ、考え方は人それぞれだからな。お前のそのスタンスは尊重するから、俺やジウがお前のことを仲間だと思ってるスタンスも尊重してくれよ、なっ。決まり!」
そう言って明るく笑う。
ユジュンの多少強引なまとめ方に納得いかない表情を浮かべつつも、
「…了解しました。」
ソンホが短く応える。

「おし、今日はこの辺りをまわるか。」
ユジュンの指示を受けて、ソンホが適当なところで車を停車する。

ゲームセンターやカラオケ店、ファミレスなどが点在する駅前通りは、午前中なこともあってかそれほど人通りは多くない。
一本、路地を入れば途端に寂れた雰囲気になる。


「…特段の異常は無さそうですね。」
しばらく巡回を続けたところで、ソンホが呟く。
「う〜ん、そうだな。まあ、平和なのは良い事だ。」
のんびりとした口調で応えながらも、ユジュンの目は少しの異常も見逃さないよう、絶え間無く周囲を注視している。


その視線が、一点に向けられた。


「こらー、お前ら、またサボってんのか〜?」
シャッターの閉まった店の前で、数人でたむろしている少年達を見つけたユジュンが、声を掛ける。

「「「あっシン刑事さん!」」」

少年達が、ユジュンの姿を見るなり嬉しそうに近寄ってくる。
「ちゃんと学校行けって前も言っただろ。」
「それがですね、今日は創立記念日なんすよ!」
「ばーか。お前らの学校、何回創立してんだよ。」
ユジュンが、ハキハキと答えた金髪頭の少年を軽く小突く。


「学校行っとかないとマジで後悔するからな。知らないぞ〜。」
「そんなこと言って自分もほとんど行ってなかったくせに。」
頭を小突かれた金髪少年がそう言ってニヤッと笑う。
「その通り! だから後悔するって言ってんだよ。…なぁ、見てみろよ、こんな若造と同じ階級なんだぞ? 俺。」
後方にいるソンホを指しながらユジュンが豪快に笑う。

「「「え、マジ!?」」」

ソンホとユジュンを見比べて、少年達が驚きの声を上げる。
「そっ! だから、勉強はできる時にしといた方が良いぞ〜。」
そう言いながらニコニコと笑うユジュンを見て、少年達が顔を見合わせる。
「説得力やべぇな…。」
「…学校、行っとくか。」
「お、おう、そうだな。」
3人はヒソヒソと言葉を交わすと、

「「「シン刑事さん、どんまいっ!」」」
そう叫び、一斉に走り出した。

「おう! 気を付けてな〜。」
去って行く少年達に手を振りながら、ユジュンは満足気な笑みを浮かべる。

その様子を眺めていたソンホが、少々イラついたような口調でユジュンを責める。
「何もあそこまでご自分を貶める必要は無いのでは?」
「ん? ああ、そんなふうに見えたか?」

ユジュンが振り向いて、ソンホの目を真っ直ぐに見る。
「…なあ、プライドや面子がそんなに大事か? 俺はあいつらのためになるんなら、いくらでも自分をネタにできる。いくらでも笑ってもらって構わないと思ってる。…おかしいか?」

「…自分には、理解できかねます。」
ソンホがユジュンから目を逸らす。

「そろそろ署に戻りますよね。車、取ってきます。」
その場から逃れるように、ソンホはそう言うと一人駆けて行った。

「…あちゃー。なんか怒らせちまったかな?」
ユジュンは困ったような笑みを浮かべると頭を掻きつつ、ソンホの後を追って歩き出した。


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ソンホは苛立っていた。

その苛立ちが、ユジュンに対してなのか、自分に対してなのか分からないことが余計に彼をイラつかせる。


少年達相手に、なぜあそこまで自分を卑下するのか。
なぜあんな風に、泰然として笑っていられるのか。
ひとつ確実に言えるのは、自分には絶対にあんな真似はできないということだ。

そんなよく分からない敗北感を抱きつつ歩いていると突然、前方の路地から一人の少年が現れた。
黒髪に眼鏡をかけて、肩から斜め掛けのカバンを提げている。
そして、ソンホの進路を塞ぐように立つ。

「…カン・ソンホ刑事、僕のこと、覚えてますか?」
少年が無表情で尋ねる。

「ん…? ああ、たしかこの間補導した…。」

「名前は、覚えてない? …、人の人生めちゃめちゃにしといて、覚えてないのかよ!!?」
突然激昂した少年が叫び、ソンホを憎しみの篭った目で睨みつける。
予想外の出来事に驚くソンホに構わず、少年はカバンからゆっくりと何かを取り出し、それをソンホに向けた。


「コロシテヤル。」


「な…!」
少年の手に握られた黒光りする拳銃に、ソンホが一瞬たじろぐ。
だがすぐに気を取り直し、少年を睨みつける。
「一体、なんの真似だ?…そんなおもちゃにビビるとでも?」
ソンホが一歩、少年の方に足を踏み出す。


「動くな! 本当に、撃つぞ!?」
今にも泣き出しそうな、思い詰めた表情で少年が引き金に指をかけようとした刹那…。

「おーい。そこの君、ちょっとタイム。」

緊迫した雰囲気の中、暢気な声が響く。
声の主は、ゆっくりとした足取りで二人に近付いていく。


「なんだお前!? く、来るな!」
突然現れたユジュンに向かって、少年が叫ぶ。
「分かった、これ以上は近付かないから、だから落ち着け。な?」
ソンホの少し後ろで立ち止まったユジュンが、穏やかな声で話し掛ける。
「どうしたんだ? そんな物騒なもん持って。こいつが何かしたんなら、俺が代わりに話を聞くから。」


「う、うるさい、黙れ!」
少年がうわずった声で叫ぶ。

「ほら、お前はもう逃げられない。大人しくそれを渡せ。」

「ちょっと待て…!ソンホ。」
ユジュンの制止に耳を貸さず、ソンホが少年との距離を縮めようとする。
「どうせ撃つ度胸なんて無いだろ? ほら、渡せ。」
手を差し出しながら、ソンホがさらに距離を詰める。

「この…っ! なめやがって…コロシテヤル!!う、うああああああ!!」

「だめだっ!」

“パーーーンッ”

ユジュンが咄嗟にソンホに覆い被さるように倒れ込むのとほぼ同時に、乾いた銃声が辺りに響き渡る…。

一瞬の静寂の後、身を起こそうと地面に手をついたユジュンが、右上腕に走った激しい痛みと灼け付くような熱さに思わず声を上げる。

「…つっ!…ぅ」

歯を食いしばり、被弾した箇所を抑えつつ立ち上がった彼の腕から、手を、指を伝ってポタポタと真っ赤な血が地面に滴り落ちる。

「そんな…、本物?」
目を見開いて驚くソンホに目もくれず、ユジュンは少年の方に目を向ける。


撃った拳銃の衝撃と、ユジュンの腕から滴る血の色に、少年はわなわなと震えながら後退る。
「そ…んな、なんで、本物だなんて知らなかった…!」
怯えた目でユジュンを見つめる。

「分かってる。大丈夫…これぐらい、大丈夫だから、こっちへ…」
ユジュンが穏やかな声で呼び掛けるが、少年は踵を返して走り出した。


「クソッ」

ユジュンはすぐさま後を追って走る。
痛みを堪えながら懸命に追うが、大通りに出たところで少年は、待っていたかのように停車していた車に乗り込み、走り去って行った。


「はぁっ…はぁ…っ…!」

立ち止まった途端、急激な眩暈に襲われて膝に手を付く。
足元から力が抜け、崩れ落ちそうになる身体を、横からソンホが受け止めた。

「なんて無茶するんですか!」
「…これぐらい、なんてことない。早く、追わないと…。」
なおも走り出そうとするユジュンをソンホが引き止める。
「もう追いつけませんよ! ナンバー照会して追跡は本部に任せましょう。…とにかく、早く止血しないと!」


そう言ってソンホは素早くネクタイを外すと、ユジュンの上腕、被弾箇所のやや上に巻き付け、結ぶ手に力を込める。
「…ぐあぁっ!」
激痛に、たまらずユジュンの口から声が漏れる。


「ひとまず、病院へ…!」




一ソウル市立総合病院一


『…分かった。とにかく、あいつに無理はするなと伝えてくれ。』
「了解しました。」
ホン課長への報告を終え、ソンホは電話を切ると深く溜息をついた。

自分の軽率さのせいで、上司に怪我をさせたという事実が耐え難い…。

それに、あの少年の目―――。
あれほどの憎悪と怒りが篭った目を向けられたのは、初めてだった。
あそこまでの怒りを向けられるほどのことを、自分はしただろうか?


…いや、していないはずだ。
していない…、間違ったことは、何も…。


…本当に…?

自問自答を繰り返すうち、不意に目の前の処置室のドアが開いた。

「シン警部補…。状態は?」
治療を終えて出てきたユジュンに問い掛ける。

ソンホの問いには答えず、ユジュンは無言で“付いてこい”というように目配せすると、すたすたと廊下を歩いて行く。
人気の無い場所までやって来ると、くるりとソンホへ向き直った。

そして…。


“バキィッ”


あまりにも一瞬の出来事に身構える暇もなく、ソンホがよろめく。
右の頬にじんじんと痛みが広がり、ようやく殴られたのだと気付いた。


「…ソンホ、俺が、何に怒ってるか、分かるか?」
ユジュンの静かな声に、確かな怒りの色が篭っている。
彼のこんな声も表情も初めて目にしたソンホは、思わず俯く。

「…申し訳ありません。自分のミスで、あなたに怪我をさせました。」

「違う! 怪我なんてどうでもいい。」

「…あの子に、銃を撃たせちまったことに怒ってるんだ。」


ユジュンの言葉に、ソンホがはっと顔を上げる。
「“銃で人を撃った”…その記憶が、引き金を引いた時の感触が、これからあの子を一生苦しめる…。そうさせてしまったお前と、止められなかった自分に、怒ってるんだよ。」


絞り出すような声で話すと、ユジュンは痛む腕を抑えつつ壁に背中を預けて大きく息を吐く。


「はぁ…。言いたい事はまだあるが、…とりあえず署に戻るぞ。」
当然のように言うユジュンに、ソンホが驚く。
「戻るって…、動いて大丈夫なんですか!?」
「これぐらい、どうってことない。それより早くあの子を見つけないとな…。ほら、行くぞ。」
ソンホの肩を叩くと、ユジュンはさっさと歩き出す。

「道中、お前とあの子との間に何があったか、聞かせてくれ。」



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『こんなはずじゃなかった…。』
『こんなことは、望んでいなかった…。』

少年の頭の中を、ずっと同じ言葉が巡っている。


“あの日”偶然、不良グループの喧嘩に居合わせてしまった。
そして間が悪いことに、お守り代わりに持ち歩いていた折り畳みナイフを、駆け付けたあの刑事に見られてしまった。

あいつの目は、端から自分を“キレると危ない少年”と決めてかかっているように見えた。
自分を蔑むような、“あの目”…。父さんと同じ目だった。


父さんは、最低の人間だ。
自分の価値観以外は一切認めない。
小さい頃から、僕の好きな物は全て否定された。
好きな絵本もおもちゃもゲームも、挙句の果てには友達まで…。
父さんが認める物以外はことごとく排除された。

成長するにつれ、僕が自分の思い通りにならない出来損ないだと気付き、諦めた父さんは、僕を“あの目”で見るようになった…。


その目で、僕を見るな。
もうたくさんだ。
家でも学校でも、自分を殺して、我慢して、父さんやクラスメイトの機嫌を損ねないよう息を潜めて…。
もう嫌だ。生きていたくない。

死ぬ前に―――。

コロシテヤル。
あの刑事の目を見て、僕の中で何かが、破裂した。


いつものようにネットの中でどす黒い怒りをぶちまけていたら、声を掛けられた。
僕のこの怒りを、一緒に形にしてくれるって。
一緒に、その刑事と父親に思い知らせてやろうって。


そうして、“アレ”を受け取った。
モデルガンだから、殺傷能力は無いと。

「でもこれで、君の怒りはその刑事とお父さんに十分に伝わるよ。今までずっと我慢してきた思いを、解放させよう…。」

優しく微笑んで、“あの人”はそう言った。

なのに…、話が、違う。
銃は本物だった。
そして、関係の無い人を、撃ってしまった。

あの人の腕から流れる血。
自分の手元から漂う火薬の匂い。

こんなことは、望んでいなかった。
僕はただ、思い知らせてやりたかっただけなのに。
僕の価値を認めてくれなかった奴らに、気付かせたかっただけなのに。


それなのに、僕はこれから、もっと酷いことをしようとしている…。

誰か、助けて。
この状況から一刻も抜け出したい。
でももう、僕の意志ではどうにもならない所まで来てしまった。

お願い誰か、僕をココから、助け出して…。


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「っ!ユジュン、お前大丈夫なのか!?」

ソンホと共に署に戻ってきたユジュンを見つけるや、ギョンスが駆け寄る。

「なぁに、ちょっと掠っただけだ。これぐらい怪我のうちに入んねぇよ。」
そう言って肩を回して見せようとしたユジュンが、途中でビクッと動きを止め顔を顰める。

「……ッ…。」
「ほれ見ろ…痛いんだろ? 痩せ我慢するな。」
ギョンスが負傷していない方の肩に手を置いて、ユジュンを椅子に座らせる。
「だーいじょうぶだって言ってんのに…。…で、状況は?」
ユジュンの目が、鋭い眼光に変わる。


その鋭い視線を受けながら、ギョンスは状況を説明し始めた。
「少年―――パク・ソンピルを乗せた車は現在捜索中だ。それから、彼の部屋のパソコンから、ソンホへの報復を匂わす書き込みと、協力者とのやり取りが発見された。」
「協力者…、ソンピルの逃走を助けた連中だな?」
「ああ、恐らくは。お前らの巡回ルートを知っていたことから考えても、相当厄介な連中かもしれん。」


宙を見つめ、しばらく逡巡していたユジュンが、険しい表情で呟く。
「ソンピルは、利用されてると考えた方が良さそうだな。」

「利用?」
ソンホが怪訝そうに聞き返す。

「ああ、あの子は、銃が本物だと知らなかったみたいだった。本人はきっとこんな事態は予想してなかったはずだ。あの子に本物の銃を渡した“協力者”とやらに、何か狙いがある気がする…。これ以上事が大きくなる前に、早く見つけてやらないと…!」

「ユジュン! とにかく今は、逃走車が見つかるのを待て。サイバー犯罪対策課の方で、“協力者”の正体も調査してるから。」

今にも飛び出して行きそうな勢いのユジュンをギョンスが制止する。

「とりあえずお前は、処方された薬飲んで体力温存しとけ。分かったな? これは課長命令だぞ。」
「…ったく、まるでお袋だな。分かったよ。…ソンホ、薬どこだっけ?」
苦笑しながらユジュンは立ち上がり、ソンホを伴って部屋を出る。


その姿を見送ると、ギョンスは自分のデスクに腰を下ろす。

長年の付き合いだからこそ、ユジュンが平気そうな素振りを見せる時ほど、我慢していることを知っている。
肩に手を置いた時、少し身体が熱いようにも感じた。

「はぁ…。あまり無茶してくれるなよ…。」

まともに言っても無駄なのも知っているから、
そっと溜め息混じりに呟いた。

「どうぞ、薬です。」

休憩スペースに置かれた長椅子に腰掛けたユジュンに、ソンホが車から取ってきた薬を手渡す。

「おお、さんきゅ。」
ソンホが止める間もなく、ユジュンが缶コーヒーで薬を流し込む。
「あっ、薬は水で飲まないと!」
「なんだ?お前までお袋みたいなことを。ははっ。」
ユジュンが笑いつつ、壁に背中を預け息をつく。

「…あの、聞いてもいいですか?」
「ん?」
「パク・ソンピルは、自分を逆恨みして、胡散臭い連中から銃を買って刑事を撃った犯罪者です。未成年だからと言ってその事実は変わらない。…なぜ、庇うような発言を?」
しばらく沈黙が流れる。
そして、ユジュンが口を開いた。

「なあソンホ、お前は、犯罪に走る若いヤツらが嫌いか?」
「っ! 好きとか嫌いとかいう話では…。」
「いや、大事なことだ。お前とバディを組んで1ヶ月ちょっとだけどな、ずっと気になってたんだ。…お前からは彼らへの“情”を感じない。むしろ軽蔑してるみたいだ。」


ソンホが唇を噛む。
上手く隠していたつもりだった内面を、この、いつもニコニコして能天気に見えるこの人は、いとも簡単に見抜いてくる。
敵わない…と思う。だから、苛立ちを覚える。

その感情を隠すことをやめて、ソンホはユジュンを真っ直ぐに見つめる。
「確かに、自分は彼らを軽蔑しています。一時の感情に流されて深く考えることなく他者を傷付ける。未成年だから、大した罪にはならないと鷹を括って、何度でも同じことを繰り返す。反省なんて、ましてや更生なんてするわけがない。そう、思っています。」


「…そうか。…やっと、本心を話してくれたな。」
ユジュンがふっと笑みを浮かべる。

「お前の言ってることはよく分かる。だけどな…、」

「だからって諦めて、切り捨てていいってのか?
確かに何度補導しても犯罪を繰り返す奴もいる。更生なんて、望めないように見えるヤツもいるさ。…でも、可能性はゼロじゃないだろう?」
ソンホが、同意できないとでも言うようにユジュンから目を逸らす。
ユジュンはそんな様子を見ながら構わず続ける。

「だが、俺たちが諦めた瞬間、本当にゼロになる。むしろ誰も手を貸さずにいたら、そいつがいつか誰かの未来を奪う事になるかもしれない…。
いいか?ソンホ…、俺たちの手には、彼ら本人だけじゃない、そいつがこれから関わる人達の未来も懸かってるんだよ。」

その言葉に、ソンホがはっと顔を上げる。
自分の視野の狭さを思い知らされた。


「…だから、どんなに不毛で報われないとしても、俺は、絶対に諦めない。」
ソンホの目を真っ直ぐに見つめて、ユジュンは最後の言葉に力を込める。

「…って、ほとんど俺の恩人の受け売りなんだけどなっ。」
言い終えたユジュンが、照れ隠しのように笑いながら頭を搔く。
「恩人…?」
「昔、どうしようもないガキだった俺を、信じ続けてくれた人がいたんだ…。あの時、あの人に出会えたから、俺は今ここにいる。俺も、あの子達にとってそういう存在になれたらと思ってる。だから、信じる事を諦めたくないんだよ。」

懐かしむように微笑むと、ユジュンは残った缶コーヒーを一気に飲み干した。


その時、少年課の扉が開いて中から巡査が顔を覗かせる。
「カン・ソンホ刑事、お電話が入ってます。」
「? ああ、すぐ行く。」

ソンホはユジュンに頭を下げると、部屋へと入って行った。


通話を終えたソンホは、硬い表情で受話器をそっと置く。

誰も自分を見ていないことを確認すると、素早く部屋を出る。
トイレにでも行ったのか、休憩スペースにユジュンの姿がないことに安堵して、急いで駐車場へと向かう。

運転席に乗り込み、シートベルトを締める。
ハンドルを握る手が微かに震えるのを感じて、力を込める。
意を決したように短く深呼吸し、車を発進させようとした瞬間…、


“ガチャッ”
助手席のドアが突然開き、無言で男が乗り込んでくる。

「シ、シン警部補…、どうして…!?」
「この腕じゃ運転できないからな、乗せてってくれよ。」
いつもの気楽な調子で言いつつ素早くシートベルトを締めたユジュンが、鋭い眼差しをソンホに向けて付け加える。

「…さっきの電話、ソンピルからだろ?」

ソンホが軽く目を見開き、溜め息をつく。
「…本当に、なんでもお見通しですね。」
「一人で行く気だったな? そうはいかねぇよ。」
「ですが、こんな事態になったのは自分の責任です。一人でカタをつけますからあなたは休ん…」
「いいから、黙って運転しろ。嫌なら、力づくで俺を降ろすか?ん?」

表情は穏やかながら、有無を言わせない気迫を放つユジュンの眼差しに、ソンホは観念したように大きく溜息をつくと、アクセルを強く踏み込んだ。




―――市街地から遠く離れた山間。

新緑が生い茂る中、前方に木造の大きな建物が現れた。
「ここです…。」
少し離れた所で車を停め、ソンホが緊張した声で呟く。


「パク・ソンピルの父親が所有する別荘のようです。」

車から降りた二人は、その建物をしばし黙って見つめる。
「よしっ、行くか。ソンピルを連れ戻しに。」
「本当に、大丈夫ですか? その身体で…。」
心配そうに見つめるソンホに、ユジュンがいつもの笑顔を向ける。
「だーいじょうぶだって!お前とは鍛え方が違うからなっ。」

「ほら、行くぞ。」
そう言うと、ユジュンはさっさと建物へ向かって歩き出す。

しんと静まり返った室内。
だだっ広いリビングには、ソファとテーブルが置かれているだけで、他に家具らしきものはほとんど置かれていない。
壁際には二階へと続く階段が設けられ、一部分は吹き抜けになっている。

その広い空間の奥、大きな窓を背にして、少年は立っていた。
そして彼はゆっくりと顔を上げると、黙って二人の方へと銃を向ける。


すかさず懐から銃を出そうとするソンホを止めると、
ユジュンはゆっくりと少年へと近付いていく。
「パク・ソンピル、俺たちはお前を捕まえに来たんじゃない。話をしに来たんだ。」

「う、うるさい! 来るな! 撃つぞ!?」
言葉とは裏腹にソンピルの手は震え、声は上擦っている。

「本気で、撃ちたいのか?」
ユジュンが真っ直ぐにその目を見据える。

「なあ、ソンピル。お前は本当に、ソレでソンホを撃ちたいのか? 撃てば、スッキリすると思うか?」

「…っ!」

「俺に弾が当たった時、めちゃくちゃ嫌な感じがしただろ?
…不思議だよな。弾が当たろうが外れようが、引き金の感触は同じはずなのに、人に当たると妙な手応えがある…。」


ソンピルが、銃を握った自分の手を見つめる。


「それが、生身の人間を傷付けるってことだ。頭ん中で、憎い奴を殴って痛め付けるのはスカッとするかもしれない。でもな、現実に人間を傷付ける感触は、全く気持ちの良いもんじゃない。今のお前になら、分かるだろ…?」

「分かってる、そんなこともう分かってる!…けど…!!」

「大丈夫だ。お前がこの状況から抜け出したいと思ってるなら、俺たちが助けるから。」


「…けて。」
ソンピルの口元が微かに動いた。
銃を下ろして、ユジュンに向かって叫ぶ。
「…たすけて!…助けてください!」


ユジュンが頷き、ソンピルの方へ歩き出した瞬間…。


“ぱん! ぱん! ぱん!”

ゆっくりと大きく、手を打ち鳴らす音が響き渡った。
ソンピルが怯えた表情で、横を向く。

その視線の先から、黒いスーツ姿の男が現れた。
その顔には、ハロウィンなどで見かけるような、笑顔が張り付いた白い仮面を着けている。


「さすがだ、シン・ユジュン刑事。」


「…何者だ?」
ユジュンが落ち着いた声で、問う。

「彼らの“救世主”とでも言おうか。…ずっと君に会いたいと思っていたんだ。会えて嬉しいよ。クククッ。」
男は、ゆったりした足取りでソンピルの側まで来てユジュンと向かい合う。

「俺に…会いたかっただと? だからソンホだけじゃなく、俺も呼び出した? まさか…、最初から俺を誘い出すためにソンピルを利用したってのか!?」

仮面の男がまた拍手する。
「ご明察! さすがだ。あの子達が君に懐くのも納得だなぁ。頭はキレるしそのルックスだ。羨ましいよ、ククッ。」

「貴様、ふざけてんのか!?」
男の態度に耐えかねたようにソンホが、一歩を踏み出した瞬間…


“パンッ!”


その足元へと、銃弾が放たれた。
ソンホがびくっと動きを止める。


「動いて良いって、誰が言った?」
それまでとは全く違う、感情の籠らない冷たい声で男が言う。
男はソンピルの後ろに立ち、銃を握ったままのその手に自分の手を添えて引き金を引いたのだった。

「僕は今、シン刑事と話してるんだ。邪魔しないでくれないか?」
そうしてソンホの気勢を削ぐと、男は再びユジュンに向き直った。

その仮面のせいで、男の表情も感情も読み取れないが、
“この男は危険だ”とユジュンの全神経が警鐘を鳴らしている。

『先程の身のこなし…。一瞬にしてソンピルの自由を奪い、ソンホが一歩踏み出す位置を正確に狙い撃ってみせた。
そしてその銃口はいまだ真っ直ぐこちらに向けられたままだ。
ソンピルが捕えられている以上、下手な動きはできない。
とりあえず今は、相手のペースに合わせるしかないか…。』

瞬時に考えを巡らせつつ、ユジュンが口を開く。
「もう一度聞く。お前は一体何者だ? なぜ俺を?」


男が、大袈裟に天を仰いでみせる。
「なぜかって?君が非常に、目障りだからだよ。これまで僕だけが、あの子達の良き理解者であり、救世主だったのに…。」
怒りを押し殺したような声色で、話を続ける。

「少し前から君の話を耳にするようになった。他の刑事とは違う、自分達のことを信じてくれる刑事がいるってね。僕のビジネスの“手伝い”をしてもらおうと目を付けていた子達までが『あの刑事さんを裏切るような事はしたくない』なんて殊勝な事を言い出す始末さ。」

「本当に、不愉快だ。」
仮面の中の目が、殺意を持ってユジュンに向けられる。

「…なあ、さっきから救世主救世主ってなんなんだ? 」

「てめえが今やってることのどこが、救いなんだよ?」
銃を握らされたままのソンピルを指しながら、ユジュンが尋ねる。

「何を言ってる?まさに救いじゃないか!」
男は心底意味が分からないとでも言うように首をかしげる。
「僕は、この子がずっと抱え込んでいた怒りを解放してやったんだ。父親からも社会からも見捨てられ、怒りをぶつける方法も解らないまま消えたがっていたこの子を、僕が救ってやったのさ。」


「それが救いだと?笑わせるな。てめえはただ、居場所の無い子たちに優しげな仮面を着けて近付いて、利用してるだけだ。それにな、本当に人を救う力がある人は、馬鹿みたいに自分のことを“救世主だ”なんてアピールしねぇよ。」

「クククッ…ああ、やっぱり君は不愉快だ! おしゃべりは終わりにしよう。君たちはここで、この子に殺される。そしてこの子は、父親の別荘で刑事二人を道連れに焼身自殺する。この別荘諸共ね。どうだ?これ以上無い復讐だろう? これで君の気も晴れるだろう、ソンピルくん?」

そうして男はソンピルの顔を覗き込み、優しげな声で語りかける。

「さあ、最後にもう一度だけチャンスをあげよう。自分の手で、あの刑事を撃つんだ。君を蔑んだ、あの刑事を…。」
掴んでいた手を離し、ソンピルの銃を握った手をソンホに向けさせる。
「ぼ、ぼくは…」
ソンピルはカタカタと震える手で銃を構えながら、一歩、ソンホに近付く。

ソンホは動こうとせず、ただ真っ直ぐにソンピルを見つめる。

「ぼくは…嫌だ!もう人を撃つのは嫌だ!」
そう叫ぶと同時にソンピルの手から銃が落ちる。

「全く、君にはがっかりだよ。ククッ」

「動くな!!」

仮面の男が懐から銃を取り出し構えるのと同時に、
ユジュンが男に銃を向け制止する。

誰も動けず、ピンと張り詰めた緊張感が辺りを支配する。

「指先だけでも動かしてみろ。てめえの頭を撃ち抜くぞ?」
ユジュンの低い声が響く。
「それはこちらも同じだよ、シン刑事。クククッ。」
ソンピルの後頭部に狙いを定めたまま、顔だけをユジュンに向けて男が笑う。
「いや、てめえは自分の手は汚さないだろ?」
ユジュンも男に向かってニヤリと笑ってみせる。

「さすが、よく分かってるなぁ。だけど、僕には仲間がいるんでね。」

仮面の男のその言葉が合図だったかのように、二階に潜んでいた男達がぞろぞろと降りてくる。

「やれやれ、大の男がこんなに隠れてやがったか。」
ちらりと背後を確認したユジュンが、なおも口元を緩めたまま、呟く。

「この状況でもまだ余裕そうだな? シン刑事。」
「いや、正直言って、『お先真っ暗』だ。…なあ、ソンホ!!」
そう言って天井を見上げたユジュンが、男の頭上の照明に向かって銃を放つのと同時にソンホがソンピルを庇うように覆い被さる。


「チッ…!」
男が頭上から降り注ぐ破片を避けようと体勢を崩す。

「ソンホ! ソンピルを連れてこっから出ろ!」
背後の男達に対峙しつつ、ユジュンが叫ぶ。
「しかし!!」
「いいから! こんなヤツらぐらい俺1人で十分だ!!」
向かってきた敵を軽くいなしながら、二人の退路を確保する。
「とにかくお前は、その子を守れ!!じきに応援が来る!」
「…了解!」


向かってくる数人を蹴散らしつつ、ソンホはソンピルを連れて外へと飛び出した。
「はあっはあ、…大丈夫か?怪我は?」
「ぼくは、大丈夫です。」
「よし、行くぞ。」
車へと走り出すソンホを追いながら、ソンピルが叫ぶ。
「ぼくは大丈夫だから、戻って下さい! じゃないとあの刑事さんが…!」
走る速度を落とさずソンホが答える。

「俺が今すべきことは、君を守ることだ。…あの人なら、大丈夫。」


ソンピルを乗せ、国道へと続く一本道を加速する。

『万全の状態のあの人なら、あれぐらいなんてことない。
だが今の状態では…』

逸る気持ちを抑えつつ運転するソンホの耳に、近付いてくるサイレンの音が届いた。
「あの音は…応援!?」
その音に気付いたソンピルがソンホを見る。
「ソンホさん、車止めて下さい!」
「え?」
「僕はここで降りて待つから、あなたは早く引き返して!」

その真剣な声色に、思わずブレーキを踏む。
「僕のせいであの刑事さんを死なせたくない…。だから早く!」
「…分かった。絶対に、ここから動くなよ!?」
ソンピルに声を掛けると、ソンホはすぐさま車をUターンさせ、アクセルを踏み込んだ―――。




「はあ…まったく、使えない奴らだなぁ。」
ユジュンのまわりに無様に転がった男達を一瞥し、男が溜め息をつく。

「…さあ、どうする? 残るは、てめえだけだ…っ。」

「あの二人にも逃げられてしまったし、興醒めだよ…クククッ。」
残念そうに、だがどこか面白がるような様子で男が笑う。
「それに、今の状態の君と戦っても楽しくなさそうだし、ね?」
そう言って、ニヤニヤとユジュンを見つめる。


「あぁ? 俺はまだ動けるぞ? てめえには聞きたいことがたくさんある。逃がすつもりは、無い。」
ユジュンもまた笑みを浮かべつつ男を真っ直ぐに睨み返すが、先程の乱闘で開いたらしい傷口からは血が滲み、包帯を真っ赤に染めている。

「その割にやけに汗をかいてるみたいだ。冷や汗かな? それとも熱でも出てるか? ククッ。」
「黙れ。人の心配してる場合か?」
言いながら、真っ直ぐに男へと向かって行く。


一発、二発と繰り出される正拳を、軽い足取りで男が躱す。
「やっぱり…相当辛そうだが、気のせいか?」
「ハァ、ハァッ…!」
痛みを堪えながら、なおも向かってくるユジュンの拳を余裕で避けつつ、
男がわざとらしく優しげな声で語りかける。
「ほら、もう限界だろう? もう止めてもいいんだぞ? クククッ。」
笑いながら男が一瞬視線を外した瞬間だった。

「おらぁ!」

男が視線を戻した時には、もう遅かった。
ユジュンは負傷していない方の腕一本で自分の体重を支えると、男の側頭部目掛けて渾身の蹴りを放つ。

「がっ!?」
声にならない叫びをあげつつ男が吹っ飛ぶ。

「はぁはぁ…、戦闘中に、よそ見してんじゃねぇよ。」
手をはたきながらゆっくりと男に近付くと、馬乗りになる。
「さあ、もう観念しろ。」
「クククッ。さすがだ、シン刑事。参ったよ。」
「1人の少年の人生狂わせといて、ヘラヘラしやがって…。俺はお前みたいな野郎が一番、嫌いだ。」
「気が合うなぁ。ボクも君のような偽善者が嫌いだよ。」
「偽善者だ?こんな仮面で顔隠してる奴に言われたかねえよ。」

そうしてユジュンが男の仮面を外そうと手をかけた時だった。


“ザクッ”
肉に何かが突き刺さるような、嫌な音が響く。

「っがぁああああ!!」

あまりの激痛に、ユジュンが叫ぶ。
すでに血で染まった銃創箇所に、男の手によってガラスの破片が突き立てられ、さらに新たな血が溢れ出す。

「やっぱりボクは運が良い。あ、照明を割ってくれた君のおかげでもあるか、ククッ。」
「…っ、この、くそ…がっ!!」
激痛に耐えながら、制圧しようとするユジュンの傷口にさらに捻じ込むように破片を突き入れる。
「ぐはぁっっ!!」
ユジュンがたまらず手を離すと、男はすかさず身体を反転させ逆にユジュンを抑え込む。

「完全に、形勢逆転だなぁ?」
「く、そっ…!うぅ…っ!」
苦痛に顔を歪めるユジュンを見て、男が心底楽しそうに笑う。
「さて…、どうする? あの二人がいないのは残念だが、君だけここで死んでもらおうか…? せっかく準備したことだしね、クククッ。」

男はおもむろに懐からスイッチを取り出し、ユジュンの顔の前で振って見せると笑いながらそのボタンを押下した。


―――その瞬間。


室内の至る所で、小さな爆発音と共に炎が燃え上がった。

「言っただろう? ソンピルが君たちを殺した後でこの別荘諸共、燃えて消えるのが計画だった、と。」
メラメラと燃え上がる炎を楽しそうに見つめながら、男が言う。
「せっかくここまで用意してやったのに、土壇場で逃げるとはバカな子だ。」

「…っ、ここまでやるとは、てめぇ相当イカれてるなぁ?」
「心外だよ。炎は全てを浄化する。あの子の中に長い間燻っていたものも、すっきり綺麗に浄化させてあげようと思ったのに。…まあいい。君がこの炎と共に消えてくれれば…ね。」
微笑みながら、男がユジュンの首に手をかけようとする。
「消えるなら、てめぇも道連れ…だっ!!」

“ガツンッ”

「うがっ!?」
不意にユジュンの頭突きを喰らって男が後ろに吹っ飛ぶ。
「ははっ…どうだ? ソウル警察一の石頭と呼ばれてる俺の頭突きは?」
軽口を叩きながら、ユジュンが右腕を庇いつつ起き上がる。

「クックック、参ったな。油断したよ。」
鼻からか口からか出血したらしく、仮面の隙間から流れ落ちてくる血液を乱暴に拭いながら、男も立ち上がる。
「お遊びは、終わりにしよう。」
そう言って、男はいつの間にか手にしていた銃を背後に向けて撃つ。

“ガシャン!”
派手な音を立てて、羽目殺しの窓ガラスが割れる。

「僕はこんなところで死にたくはないんでね。君とはここでお別れだ。」
男が振り返り、ユジュンへと銃口を向けようとした時だった。



「シン警部補!! 無事ですか!?」
ユジュンの後方から、ソンホの叫ぶ声が響いた。
男の注意が逸れた瞬間、ユジュンは一気に距離を詰める。
手刀で銃を払い落とすと、右の拳をその顔面に叩き込む……が。

「その腕で、何ができる?」

軽々と拳を受け止めた男が、その腕を引き寄せながらユジュンの腹に膝蹴りを食い込ませる。
「がはっ! …っ!ゲホッゲホッ!!」
体内から一気に吐き出された空気を取り戻そうと、大きく息を吸ったために煙を吸い込んだユジュンが激しく咳込む。



うずくまり激しく肩を上下させるユジュンの姿が、炎と煙で霞む視界の奥に見える。
「シン警部補! …先輩!!」
もう一度叫び、口元を腕で覆いながら、ユジュンの元へと向かおうとするソンホだが、燃え広がる炎のせいで思うように進めない。



「いいのか? 可愛い後輩まで焼け死ぬことになるぞ? ククッ。」
向かってくるソンホを見ながら、男が笑う。
「そろそろ限界かな。僕はお先に失礼するよ。」
「くっ…、待て。逃がさねえ、ぞ。」
ゆらりと立ち上がったユジュンの背後で、木の軋むような不穏な音が響いた。

「…見ろよ。僕の逮捕と後輩の命、どっちを取る?」

男の視線の先、ちょうどソンホの頭上の梁の一部が、今にも焼け落ちかけている。

「っ! くそっ!!」
ユジュンが迷わずソンホに向かって走る。
その勢いのまま、ソンホを庇うように床に倒れ込む。

ほぼ同時に、背後で派手な音を立てて梁が落下した。

「…っ、大丈夫か、ソンホ!?」
痛みと熱さと息苦しさで遠のきそうになる意識を無理矢理引き戻して、立ち上がるや否や男の方へ戻ろうとするユジュンをソンホが必死で引き止める。
「ダメです!もう無理ですよ!」
「あいつは、あいつだけは捕まえねえと…!」
「絶対に行かせません!」
半ば強引にその身体を振り向かせると、ソンホは言った。

「あなたを死なせないと、ソンピルと約束したんです!!」

ソンホの剣幕に軽く驚いたように目を見開くと、観念したとでも言うようにユジュンがふっと笑う。
「…分かったよ。すまんが肩、貸してくれ…。」



「おい! 消防はまだか!?」
ホン・ギョンスが切迫した様子でハン・ジウに問う。
「あと15分はかかるそうです!」
「くそっ、そんなに待てるかよ!」


耳に入ってくる会話を聞きながら、目の前でごうごうと燃え上がる建物を、少年は祈るような気持ちで見つめていた。
『頼むから、早く出てきて…!』
何度目かの願いに応えるかのように、煙の奥で、人影が揺らめいた気がした。

「…っ!!」

「…ユジュン! ソンホ!!」

ソンピルの傍らに立っていたギョンスがいち早く気付いて叫ぶ。

「お前…、また無茶しやがって!」
自分の姿を認めるなりすごい剣幕で走ってくるギョンスを見て、ユジュンが力無く笑いながら空いた方の手を軽く上げる。
「おー、ギョンス。」
「『おー』じゃない! 俺が気付かなかったら、どうするつもりだったんだ!? …大体お前は昔から!」
「あー、分かった分かった。説教なら後でたっぷり聞くから。今は勘弁してくれよぉ。」

平謝りしつつ彷徨っていたユジュンの目が、少年を見つけた。
「ソンピル…!大丈夫だったか?どこも、怪我してないか?」

俯いたまま、顔を上げないソンピルに横からソンホが語りかける。
「どうした? 約束通り、先輩を死なせなかっただろ?」


「……ごめんなさい! 僕のせいで、お二人を危険な目に遭わせて、
本当にごめんなさい…!」
ソンピルがやっとの思いで絞り出すような声で言う。
「…いや、君にそうさせたのは俺だ。だから俺も謝る。本当に悪かった。」


黙って二人を見つめていたユジュンが口を開く。
「…誰だって失敗や間違いは犯すもんだ。大事なのは、それに気付いた時どう行動するかだ。」
ゆっくりとソンピルの正面に立つと、その肩にそっと手を置く。
「今のお前なら、父親と真っ向からぶつかれるはずだ。自分の気持ちを、言葉にして伝えろ。もし、その思いが伝わらなかったとしても、俺とソンホはいつでもお前の味方だから。…なっ、ソンホ?」

「はい!」
背中越しに届いた声に満足気にニカッと笑うと、ソンピルの後ろで待機していたジウに目配せする。
「じゃあ、行きましょうか。」
ジウに促され、警察車両に乗り込もうとしたソンピルが、こちらを振り返って頭を下げる。

それを見送りながら、ソンホが言った。
「彼は、大丈夫ですかね?」
「ああ…きっと、な。俺は…、信じる…よ。」

「!!ちょっ、先輩!?」
突然大きく傾いたユジュンの身体を、ソンホが受け止める。
「いやぁ、俺の方が、大丈夫じゃない…みたいだ。」
力無い笑みを浮かべてはいるが、その身体は異常な熱を帯びている。
熱と傷の痛みで浅い呼吸を繰り返すその様子に、ソンホが叫ぶ。
「先輩!? しっかりして下さい!」

「ははっ…、先輩、か…いい響きだ……。」
満足そうに微笑むと、ユジュンはついにその意識を手放した。



―――2週間後。


一ソウル中央警察署“少年課”一

「以上が本日の業務連絡だ。あーそれと、シン・ユジュン警部補は来週復帰する予定……ってお前! いつからそこに!?」

心底驚いたふうのギョンスに、のんびりした口調で男が応える。
「あー? さっきだよさっき。遅刻はしてないぞ? なぁソンホ?」
「はぁ…。そうですね…。」

驚きを通り越して、心底呆れた様子のソンホが、ため息混じりに返事をする。
「なんだよ、憧れの先輩が復帰したんだぞ? もっと喜んでくれよぉ。」
「っ! 誰も憧れてなんかいません!」
ソンホに一蹴されてしょげるユジュンを見て、二人の前にコーヒーを置きながら、ハン・ジウがクスクスと笑う。

「でもほんとに大丈夫なんですか? ユジュン先輩。」
「だーいじょうぶだって。もうだいぶ普通に動かせるように…」
右腕を回して見せようとするユジュンを制して、ジウが後ろを指す。
「違いますよ。ほら、後ろ。かなりご立腹ですよ?」


振り返ると、ギョンスが鬼の形相で仁王立ちしている。

「…ったく、お前って奴は! まだ完治してないだろう? …休んどけと言っても無駄だろうから言わんが、無茶したら今度こそ許さんぞ?」
「はい、了解です! ホン・ギョンス課長殿!」
ユジュンが大仰に敬礼をして見せて、ニカッと笑う。

「その顔やめろ…怒る気が一気に失せるだろ…。はあぁ〜〜〜。」
盛大な溜め息をつきながら席に戻るギョンスを尻目に、ユジュンの顔付きが変わる。

「さて、行くかソンホ。…俺は必ずあいつを捕まえる。」
「仮面の男…ですか?」
「ああ。お前もあいつが、あのまま死んだなんて思ってないだろう?」
「まあ、ああいう輩は簡単には死なないでしょうね…。」
「気が合うな。俺も同感だ。とにかく必ず、見つけ出すぞ。」
「でも、どうやって? あれから奴は忽然と姿を消したままですよ?」

「分からん。」

至極当たり前のように返ってきた答えに、ソンホがぽかんとする。
「はい?」

「だから、分かんねえよ。…ただ、あいつは必ずまた俺の前に現れる。だから、俺たちはこれまで通り仕事に精を出してりゃいいってことだ。」
「またそんな根拠の無い理屈を…。分かりましたよ。」
「お? なんだよ、もっと突っかかってくると思ったのに。」

拍子抜けしつつも嬉しそうなユジュンに、ソンホが眉間に皺を寄せて言う。
「なんですか。人を子供みたいに。先輩の理屈にも一理あると判断しただけです。ほら、行きますよ。」


先に部屋を出るソンホを、少し驚いた様子で見つめていたユジュンはふっと笑うと、
「待てよー!ソンホ!」

後を追って部屋を飛び出した。


to be continued…?





《あとがきのようなもの》
やっと、やっと、やっと!!
初のオリジナル作品が完成しました〜!!

いやぁ、長かった。長くかかりすぎた😱
正直何度消してしまおうやめてしまおうと思ったか…(苦笑)。
後半部分まで割と早く書けたのに、そこからピタッと止まってしまい…。
プロット未完成で書き始めるからこういう事になるのだと、痛感😂

これまでは『油っこいロマンス』という作品の設定を使わせてもらって3作品書いた訳ですが、完成された世界やキャラクターがいかに大きな存在なのかも痛感しました。
オリジナルでキャラを作ることの難しさったら…😵😵


時間を掛けすぎたせいでキャラも設定もブレブレになってるかもしれませんが、とにもかくにも完成させることが大事だと言い聞かせながら、なんとか書き上げました。出来はどうあれやっとスッキリしました(笑)。

最後になりましたが、こんなお粗末な小説を読んでくださった皆様に感謝します。

ありがとうございますm(_ _)m

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