名もなき普通の美しさ
お運びくださりありがとうございます。明です。
しばらく暗いトンネルにいました。
なんか、
「ただ生きることで幸せを体現するんだよ」
って課題を受け取ったものの、
難しくて、色々ともがいていました。
もがく中で、
それまでは誇りに思っていた
(ある意味すがっていた)
自分の歩んできた道のりが
急にどうでもよくなってきて
突然すべてが無意味だったように思えてきて
その先に、
“苦しいことや悲しいことを乗り越えるのは、
神さまから何かをもらうためではなかった”
(神さまが与えてくれるのは命そのものであって、
苦難への報酬ではない)
ということに気付きはしたものの、
“いつか報われるはず” と思って生きてきた私には
すぐには飲み込むことができず、しんどかったです。
そんな時、
らくたさんのこの記事に出会い、
暗闇に明かりが灯りました。
以下は、こちらの記事の中に紡がれている言葉です。(これは一部なのでぜひ全文読んでほしい)
そっか
普通でいいんだ
…
今回の流れで、
キーワードをひとつ見つけました
【 普通であってはいけない 】
この思い込みの発端は
母による教育だと思います。
でも、親離れしても尚、
自分で自分にその呪いをかけていたことに
先日、気が付きました。
つい数日前まで私は、
普通を愛せる人たちは
“すごい人だからできるのだ”と思い込んでいました。
すごい人(なにかを成し遂げている人)は
十分に満たされているから
何もない日常も愛せるのだと、
だから、自分も何かを成せれば、
普通を愛せるようになるんじゃないかと、
何かを成せば、
埋まらない何かを求め続ける人生が
終わるんじゃないかと、
だから自分も何かを成し遂げたい!
そう思っていたんです。
(実際は、その逆で
普通を愛している結果、
自然と拡大するんですよね)
あれ、ということは、私は
すごい人になりたい、というよりは
普通を愛せるようになりたい、のか
ということに、ようやく気づきました。
こうやって文章にすると
当たり前のことに感じますが、
本当にわかっていませんでした。
…
“普通の暮らしができるだけでも恵まれたこと”
という考えもあります。
ただ、この考えに出てくる普通は
何かと比較したときの普通(=平均)で、
今回の “普通” は、
それとはまた異なるものです。
何かとの比較で生まれる普通ではなく、
いまこの空間に在るもの、
「ハレとケ」でいうところの「ケ」。
「ケ」を愛するには【心の余白】が必要で、
その心の余白から映し出された普通は
とても美しいんだ、
ということを知りました。
そんなことを考えていると
パートナーくんからこんな動画が
シェアされてきました。
うんうん、そうだね。
これからは、
“普通”を価値のないものとして捉えず、
普通の中に溢れる美しさをキャッチできる
心の余白を取り戻していこう
…
みなさんは普通の中に
どんな美しさや喜びを見つけますか?
私は
気持ち好いお天気の日に
鳥の声を聞きながら洗濯物を干すとき、
不思議ととても
幸せな気持ちになることがあります🍀
あとはなんだろう、
炊き立てのご飯をみつめてるときとか、
止まっている車内で
大粒の雨音に包まれるときとか?
朝から髪が綺麗なときとか!
みなさんの感じる
普通の中の美しさ、
よければ教えてくださいね。
ありがとうございました。
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