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【関口祐加監督②】老いは、神様が与えてくれた命の終わりに近づかせてくれるもの

関口祐加監督によるドキュメンタリー映画シリーズ『毎日がアルツハイマー』(略して『毎アル』)の公式noteにようこそ。

このnoteでは、シリーズ最新作『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル〜最期に死ぬ時。』の公開まで、映画のテーマである「死」についての記事を定期的に更新していきます。

今回は、関口祐加監督インタビューの後編です。
認知症の母との母娘二人の自宅介護生活は9年目。還暦を過ぎた関口監督が考える「老い」と「死」。認知症の母にとって「いい死に方」とは何か。そして、そのためのケアとはー。
※関口監督インタビューの前編はこちら

死に方のパーソン・センタード・ケア

―死に方について家族でオープンに話し合い、意思統一できるといいですが、日本では死をタブー視する傾向があると言われます。若い頃は自分と関係ないと思って話題にのぼりませんし、年を取ってくるとリアル過ぎて言いたくないでしょうし。

 そうですね。「病院で死ぬか、家で死ぬか」というように、“ハコモノ”の話は、まだ話題になりますが、それだけじゃないと私は思うんです。だって、在宅がいいと思っても病状によっては入院が必要ですし、在宅介護を受けていても土壇場で救急搬送されることだってあります。

 最近、ステージ4の進行がんを患っていた男性の話を聞きました。ご本人は、治る見込みのないことを理解していて、奥さんのそばで、自宅で亡くなりたいと願っていました。だんだんと衰弱し食事を自ら拒否するようなったそうです。ご自分で死の選択の意志表示をしたんですね。ところが、彼の周囲の専門職の人たちは、バイタル数値を気にして、とにかく食べさせようとさせた。本当はもう徐々に水分を控えて、看取りの体制を整えたほうがよさそうな時に、プロでもなかなかそこに至れないことがあるんですね。

 医学の発達によって、人間は永遠に生きそうな錯覚を持たされているのかも知れません。とにかく生かし続けて、死と向き合わないことが一つの文化のようになっている気がします。でも、命に終わりがあることは、紛れもない事実。きちんと終わりのことを考えましょうよ。どこで亡くなりたいのかというハコモノの問題だけにせずに、自分の命にどうお別れを告げたいのか。家族がそこにどう向き合い、お互いに納得するのかを考えることはとても重要だと考えています。

―スイスの自死幇助は、頭がクリアであることが条件の一つになっています。認知症のある人が希望通りの死に方をするのは難しいでしょうか。

 基本的に自死幇助は、認知症になったら厳しいです。頭がクリアであることが条件の一つですから。一般的には、認知症などで本人の意思がわからなければ、本人を一番よく知っている人たちと話し合うことですよね。死んでいく時も本人が主役で、その人の思いをなるべく遂げてあげる。そうした「死に方のパーソン・センタード・ケア」が大切だとつくづく思います。きっと、どんな死に方をしたいかも十人十色なはずです。

―お母さんのひろこさんは「突然死がいい」と、作品中で死生観を語っていますね。

 日ごろからそう言っているんですよ。突然死へのこだわりは強いんです。というのも、自分の両親が突然死でしたから。祖父は伯父とけんかして、わあっと家を飛び出したところで、心筋梗塞を起こして亡くなりました。祖母はだいぶ認知症が進んでいて、ある日、おなかいっぱい食べてウトウトしながら横になって、そのまま逝っちゃったんです。私の父はある日、トイレで倒れて突然死です。だから母の中に「自分も突然死がいい。病院はイヤ。」という気持ちが強くあるのでしょう。

 もちろん、病院で亡くなった親族もいますが、本人も家族も、あまり納得のいく死ではなかったのでは、と思っています。母の姉の伯母は、脳溢血で倒れて入院しました。植物状態になって3カ月くらいたった頃、突然、医師や看護師たちが病室にやって来て、家族に詳しい説明もないまま体に入っていた管を全部抜いていった。それから1週間くらいして亡くなりました。本人に決定権はないし、家族も何をされたのかわからないままの最期でした。これは90年代のことですが、それにしてもあまりにも医療者中心の最期の死に方です。

その点、母が脳の虚血症発作で倒れた時の病院の対応は、今はよかったと思っているんです。救急搬送されましたが、点滴を打っただけで帰されました。最初は心配で「1泊くらい入院したほうがいいんじゃないでしょうか?」と聞いたのですが、病院は受け入れてくれませんでした。

―必要以上の医療をしなかったわけですね。

 そう。母は直腸ヘルニア持ちですが、肛門科クリニックでも手術をしないことになりました。医師は「手術自体は簡単です。しかし、全身麻酔をするので、認知症のお母さんの脳にどういう影響が出るかわからないから、手術はしません。」とはっきり言ってくれました。ある意味で医療から見放されたわけですが、逆に、そうしてくれた医師はいい医師なんじゃないかって、最近思うようになりました。

 母は、手術をしなくても痛みはありせんが、失禁が多くなります。しかし、みんな年を取ると膝が痛いとか、血糖値が高いとか何かしらの不具合が出てきますよね。命って、それらと付き合いながら枯れていくものじゃないか。そんな風に考えるようになったのも、友人が亡くなったり、私自身還暦を迎えたことが大きいと思います。

 だから逆説的ですが、ある程度年をとったら病を持つこと、機能が衰えていくことは、実は素晴らしい変化なんじゃないかって思います。老いは、神様が与えてくれた命の終わりに近づかせてくれるもの。「年を取ってもいつまでも元気で」じゃなくて、万人に訪れる自分の老いを受け入れる方向に考え方が大きく変わりました。

「老い」は考えるだけでなく、体験するものである

―ヒューゴ先生は、「老いというのは、ある年齢になると考えるだけじゃなく、体験するようになる」と語っています。

 早い人は老いって40代ぐらいから体験するのではないでしょうか。私自身は、両股関節全置換の手術をしてから数年たちますが、今でも週に1回訪問リハビリを受けています。介護認定は要支援2で、第3級の身体障害者でもあるんです。手術後には、大転倒を2回も体験しましたし・・・やっぱりこれから歩けなくなっていく時の自分をイメージしていますね。

 頭だってだいぶ弱ってきています。母の部屋を掃除していて「これは捨てよう」と思ったのに、しばらくして部屋に行ったらまだそのままあったとかね。そんなのしょっちゅうです。どんなに母にパーソン・センタード・ケアをしたくても、自分にも老化現象が出てくると難しくなります。私が認知症になる可能性だって否定できません。もしそうなった時に、誰を信用して、どんな介護をしてもらったらいいのか。そんなことも、最近は考えるようになりました。

―今作には、託老所「あんき」(愛媛県松山市)も登場します。利用者さんたちは、まるで自宅のようにリラックスしてくつろいでいます。

 あんきは普通のデイサービスと違って、ドアや窓に鍵を全くかけません。天気のいい日は掃き出しの窓を開けっ放しにして、お年寄りが心地よい風を受けて、うたた寝したりしています。その場面を海外の人に見せたら、みんな大絶賛してくれましたね。世界中どこを探してもドアや窓の鍵をかけない施設なんて、ないからです。

 あんきの経営者の中矢暁美さんは、ありとあらゆる創意工夫をされていて、認知症の人でも住み慣れた環境に感じられて過ごせるようにしています。事務室は玄関に面していて、常にスタッフの人たちは、そちらを向いて仕事をしている。玄関を出たところには、小さな玉砂利が敷き詰められています。建物の外に出たとしても、すぐには遠くに行けない工夫です。

 それでも帰ろうとする人は、無理に引き留めないんですね。あんきのスタッフは「では送っていきますね」と車を玄関に寄せ、乗ってもらいます。3分ぐらいしたら「あら、そろそろお茶の時間ですよ」とか言って本人が納得して降車するような声かけをします。こういうのが、認知症ケアの高度なスキルなんですよね。私は年を取ったら、あんきのようなところで暮したい。

 ただ、確かに自分の老いは受け入れられるようになりましたが、母の命の責任を負うことについては、いつまでたっても慣れませんね。だって介護をする私は、母の生殺与奪の権を握る圧倒的な立場にいるわけですから。

―介護する側にのしかかる責任の重さですね。

 編集のデニースさんは、かねがねお母さんが「病院では絶対に死にたくない」と言っていたので、施設でのターミナル・セデーションで見送りました。きっと、お母さんは幸せだったと思います。それでも「私が母を死なせた」という十字架を心に抱えています。彼女には兄弟がいて、彼らは病院に連れて行ったほうがいいと反対したので、兄弟の関係性が壊れてしまったこともあると思います。

 一方で、映画に出てくるフレッドさんは、心臓に疾患を抱えていてバイパスの手術もしています。だから「次に倒れた時は、ターミナル・セデーションで逝きたい」と、妻のマーガレットさんにはっきりと意思表示しています。家族にとっては、わかりやすくて心の準備がしやすいのではないでしょうか。

 どういう最期を迎えたいかは体や精神の状態で変わりますし、家族の話し合いが難航することもあります。それに「その時」は急に訪れるかもしれませんよね。基本的には、本人にとってのいい死を遂げるのは、とても難しいとは思います。それでも私は、自分が最期に死ぬときのことをあれこれ考え続けていきたい。そう思っています。

 母は実は、この映画が完成した後の今年2月にも脳の虚血症で倒れたんですよ。もう5回目です。介護には終わりがないどころか、一寸先は闇。だからこそ、終わりから逆算して、どういう死が望ましいか、オープンに話し合っておくことを提案したいのです。

―さて、今回のタイトルは「毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル」ですが、本当に最後なのでしょうか?

 もう死を語ってしまいましたからね(笑)。もちろん、これからも母の介護は続いていきますし、パーソン・センタード・ケアのハウツーを伝えたい気持ちはありますが、その辺りは動画でアップすればいい内容なのかなと思っています。

 でも実は、最後の1本を作りたいと思っているんです。それは私が死ぬ時。“関口祐加はどういう死のオプションを選んだのか”という映画は作りたいですね。映像は撮っておくので、私の死後、スタッフが、みんなでまとめてくれるといいなと思っています。なるべく明るく逝きたいものですが、果たしてどうなるか。私にとっても未知数なので、ドキュメンタリー映画の真骨頂として面白いんではないでしょうか(笑)。一つ言えることは、後悔なく死んでいくには、今この生きている時を精一杯生きる、ということです。ここははずせない重要な点ですよね。
(インタビュアー:越膳綾子)

次回の更新では、都立松沢病院の精神医である井藤佳恵先生に「認知症の人の終末期」について伺います。そちらもお楽しみに!

『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル〜最期に死ぬ時。』
7/14(土)〜ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開
『毎日がアルツハイマー』『毎日がアルツハイマー2』の上映も決定!
ヒューゴ・デ・ウァール博士(『毎アル2』出演)来日 記念イベント
〜「認知症の人を尊重するケア」その本質とは?〜
【日時】7月24日(火)19:00〜 (開場 18:40)
【会場】日比谷図書文化館・コンベンションホール


映画監督である娘・関口祐加が認知症の母との暮らしを赤裸々に綴った『毎アル』シリーズの公式アカウント。最新作『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 最期に死ぬ時。』2018年7月14日(土)より、ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開!