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もがく若手、思い出すわたし

街で、例えば習い事やジム、もしくは私の場合大概が飲み屋になるけれど、居合わせた人と話す行為はコミュニケーションの調整力を上げることにつながると思う。初めての人に対する様子見と距離の取り方、親しくなるタイミング、相手の意表をつく返しに瞬時に対応する力。
それに、仕事で少し行き詰まっていたとしても、会話の中からちょっとしたヒントをもらえたり、職場では出てこない話題で盛り上がることがリセットにつながったりする。日々を乗り越えるツールやシーンの選択肢がいくつかあること=会える人のバリエーションが多いことは、たぶん私たちの日々を助けてくれるし、そこに手をかけられた料理や、心地いい疲労感を誘うちょっときつめのワークアウトが加われば生きることはそんなに大変じゃなくなる。

希望している仕事が振られず、別の依頼されたさして興味のない仕事を我流でやって納期に間に合わず、怒られて反発しながらも、どう状況を抜け出せばいいかわからない若手がいる。
同じチームの先輩としての立場から見ると、ただ「自分が一番正しい」「自分の考えは絶対通用するから試させてくれ」をエビデンスなく、その場にかける熱量で何とか押し切ろうとしているように映り、それは20代の頃わけもなく自信たっぷりで上の人にたてついた経験のある人なら誰でもわかる。いわゆる通る道なのだ。
あの頃、あそこからどう脱却したのか、具体的な出来事はもう覚えていないが、当時多くの年上の人たちは自分と適度な距離を取りながらも誤った方向に行かないよう軌道を都度チラ見していてくれたように思う。
先日、その頃最もガチバトルを(私はガチだったが相手は鼻であしらう程度である)繰り広げた当時の部長と数年ぶりに飲んで、私が直面している若手の問題を話すという状況をまず笑われた後、こう言われた。
「俺はお前に人と会う場を斡旋した。」

確かにそうだった。
あの人は、ことあるごとにおじさん飲みに誘ってくれたり、お昼の食堂で会うと一緒にいる偉いさんと強引に前に座ってきて、
・人の話を聞くこと
・人と人とのつながりを観察すること
・人の積んだ経験を探るだけの質問をすること
・自分以外の人がどれほどの経験をしているか正しく理解すること
・自分がどれほどやっているのかを話すこと
を否応なく促してきた。
これらを反復することは周りを見る目を養い、敬意を持つことの習慣化につながり、いつしかそれは自分の財産となった。
新しい人と会い、その人に対して自分のことを話すことは、考えややっていることを整理することにつながるし、何より自分一人でやっているのではないことに話しながら気づくのだ。あるいは話している時はひたすら愚痴モードであっても、相手の予期せぬ質問で新たな世界がひらけ、そこに通底するのは「私はこんなに頑張っているのに」という感情が幻想でしかないことである。

私はそうやってもらった。じゃあ今回はどう還元する?
手始めに、同僚との定期飲みゲスト枠に誘ってみるか。ということでスケジューラに入れてみたところ、しばらくお酒は止めていますとの返事でキャンセルがきた。

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