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フットボールを取り巻くそれら

いつもの年末なら、十三にある行きつけの焼き鳥屋で箕面ビールを飲みながら、年3回ほど会う人々と3周めくらいになる近況報告をしている時間だ。そしてそんないつもは、今年実現しなかった。

万博のゴール裏が芝生の頃、父に試合へ連れて行ってもらい、つまらん試合だとぶーたれて芝生に横たわり昼寝も夜寝もし、バティストゥータが来たプレシーズンマッチを人もまばらなバックスタンドで寒さに震えながら凝視し、翌年J2に落ちるとは知らず長年の夢の地(祖父が好きだったNHK特集のシルクロードで見て恋に落ちた)だったウズベキスタンで試合があるなら会社を2回中抜けしてビザを取ることまでできてしまう、なぜならそこにはガンバ大阪があるから。と、これまで思ってきた。そう思って行動してきた。

いつもなら、少なくとも年間10試合くらいを現地で観戦していた。いつも、ではなくなった今年は1。アウェイ埼玉スタジアムのみでホームは0だ。残りの試合はすべてDAZNで観た。
そんな1年を過ごして思うのは、わたしはフットボールそのものが好きなのではないということ。これまで20年以上好きなチームがありながら、その戦術やフォーメーション、交代マジック、試合運びは正直あまり記憶に残っていない。
今シーズンのガンバは、我慢強い試合運びという名の、85分間殴られっぱなし防衛戦をなぜか奇跡的にものにしてきたが、酒気帯び運転で起訴され解雇となったアデミウソンの、その要因となった柏戦の劇的な勝ち越しゴール以外はほぼ覚えていないし(あぁ神様、アデミちゃんだけでもあのゴールの時間に戻して、夜に心斎橋へ行かないパターンの人生を与えてあげてください)、ユナイテッドと我が軍が戦い、ボコボコにされながらもぼかすか点を入れたCWCの試合でさえ記憶はあやふやだ。

じゃあ、わたしのフットボールへの興味はどこにあるのか。試合へ出かけなかったことで、今年それが明確になった。いつもの年はアウェイへの旅の高揚感でごまかしていたのかもしれない、昔の自分の気持ち。地元のサッカーチームを持った時に感じた気持ちをふと思い出した。

ガンバ大阪を通じて、私はそれまで小説や映像の中でしか触れられなかったフットボールカルチャーに自分が直接アクセスできるという手応えを感じ、自分もその一員になれる機会をもらったと思ったのだ。フットボールを取り巻く人々の活動と、それらが織りなすストーリーへ自分が参加し、ストーリーを構成する様々な要素(歴史、音楽、服装、言葉、行動、思考)を知ることができて、あわよくば身につけられるかもしれないという愉しみ。それこそがわたしの好きなフットボールのすべてである。少なくとも野球では感じられなかった「周囲のカルチャー」が、フットボールには何層もあるように感じられた。もちろん今でも感じているから、フットボールを観続ける。
お気楽大学生だった頃のバックパッカー旅でセリエ、リーガを観た時も、試合の中身より、宿の食堂に集うサポ達と結果飲みつぶれながら、発煙筒の現物を見せてもらって「ダービーとは」という話を聞き、このブランドを着ているやつはダサいとか、タワレコに行ったらこのアーティストを買えとか(今ならSpotifyで一瞬でシェアできるんだろう)、どうでもいいようですべてがフットボールに収束していく話をする時間がとても愛おしかった。

いつもとは違うフットボールのシーズン。スタジアムへ行けない、行っても声を出せない、不思議な観戦形式。ただ、フットボールの周りの要素は何ら変わらない。ビールを飲み、語り(ただしマスク必須)、試合用の服を着て、勝ったら喜び、負けたら悔しがり、移籍事情に心がざわつく。

もしかしたら二度と戻らないかもしれない、いつものフットボール。それでもフットボールは続く。
そこには新しい活動とストーリーが生まれ、新たなカルチャーへと繋がっていく。2021シーズンは、フットボールを取り巻くそれらを作れるサポでいたいと思う。




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