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「被災地ボランティア」は「求められてること」を見極めて「やり過ぎ」ないように〜福島県双葉町より

2024年1月中旬、関東から足湯隊が福島県双葉町に来ました。それをきっかけに、被災地ボランティアに関して思うことを徒然書いてみます。

【需要と供給は「個人的には」満たされたけれど】
「(困っている人に)なにかしたい」という思いは尊い。
私は今、半月以上の患いで非常に身体的に弱っていたので、足湯とマッサージはとても助かった。
つまり結果として需要と供給は満たされた訳です。
悪天候の中、来てくださってありがとうございますという気持ちです。

【「困っているに違いない」という思い込み?】
ただはじめから、
「被災地だから、年寄りが多いから、困ってるに違いない、動ける私たちは支援をしなければ」
という思いで来られても、実はもうそんなに困ってなかったり、求められてなかったりする。ちなみに私は「被災地」に暮らしているけれど、被災者でもなければ、高齢者でもない。

また上げ膳据え膳でボランティア活動をやられてしまうと、
現地の自立を妨げたり、自尊心を傷付けたりする可能性もある。
誰だってできれば支援「され」たくはないのだ、自分の足で立ちたい。でも来られたら、支援されたら、ありがとうと言うしかない。

【一周回って、被災者へというより高齢者へという支援は必要かも】
とは言え、震災と原発事故から12年以上経って、被災した皆さんは本格的な高齢者になっている。
被災者+高齢者という立場であるにも関わらず、帰還した町のインフラが整っていない中暮らしている。支援は足りているとは言えないし、遠くまで自力で出掛けられなくなっている人もいる。

そう思うと、一周回って足湯やマッサージのようなボランティア活動が、あらためて必要な時期になって来たような気もする。
(とは言え、今日足湯に来た人は多くはなく、本当に動けない人は来られなかったんだけど)

【改めて「ボランティア」の基本に立ちかえる】
これから能登地方にボランティアが入るようになると思うけど、ボランティアはあくまでも自主的な自身の思いであり、現地のニーズが最優先である。自分のやりたいこと、やれることではなく、その場で必要とされていることをやるべき。

「やってあげてる」的な気持ちや、自立を妨げてしまうような「やり過ぎ」の無いように活動して欲しいと思います。

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