シーロ・ゲーラ監督「彷徨える河」先住民族の視点で誘われるアマゾンの流れのような時間と空間

ふと目に留まって借りてきた。ふと・・・というのは「アマゾン先住民族」という言葉をケースに見つけたからだ。「先住民族」とか「少数民族」、または「民族」について以前から興味をもっていたし、近年民族の問題で悲しくなることが多いからだ。
 ちょっと引っかかって手に取っただけの偶然を、今はひどくラッキーだったと感謝している。素晴らしい映画だった!DVD返却日までにもう一度観返したいと思っている。

 この映画は昨年から公開されている新しい映画で(松本では今週末まで公開しているらしい)わたしは何も知らずに鑑賞して、後になって知った。新しい映画を観たのは最近では「La La Land」くらい。

 大アマゾンの流域に住んでいた先住民族。大蛇の化身であるという大河アマゾンで、神と自然を敬い独自の文化を伝えてきたが、スペイン人に侵略されてしまう。
 主人公は、滅ぼされた村のただ一人の生き残りとなったシャーマンの「カラマカテ」だ。長年一人で生きてきて、記憶も曖昧となった老シャーマン。彼を一人のアメリカ人植物学者が訪ねてくるところから、物語は過去と現在を行きつ戻りつしながら進んでいく。過去と現在が交錯する映画は今までも鑑賞したことがあるが、この映画では特別な魅力がある。シャーマンが処方する幻覚剤の煙に包まれていくような感覚がある。
 
 重篤な病状で死にかけているドイツ人探検家と若き日のカラマカテ。数十年後、第二次世界大戦中にやってきたアメリカ人学者を老カラマカテは、死なせてしまった探検家の生まれ変わりと信じている。病を治すという幻の植物「ヤクルナ」を求めて大アマゾンをカヌーで進む。時を遡る旅が始まる。

 侵略された側の悲惨さはいつの時代も、どの国でも同じだ。ゴム農園の農奴は虐待に耐え兼ね「殺してくれ」と懇願する。
 かと思うと、「救ってやっている」という独善的な態度が見苦しい白人のカトリック司祭。自分は先住民族の救世主と信じている男(もはやカルト集団)。ヤクルナに対する敬意を忘れ、トリップしている村人・・・。

 現在のアマゾン、過去のアマゾン。蛇行する大アマゾン、体をうねらせ絡まるアナコンダ。時間もうねり、イメージが絡み合っていく。

 映像はほぼモノクロだ(ラストシーン近くになって、短いカラー場面あり)。それにも関わらず、いや・・それだからこそ、時間と空間を漂っているような不思議な感覚、アマゾンの闇と神聖さ、蹂躙された先住民族の悲哀、侵略者のエゴが闇の中から浮かび上がってくる。

 過去に起きたことは取り返せないが、そこから何か学ぶことができないのだろうか。人間は、悲しい間違いを繰り返すしかないのだろうか。そのような嘆きすら、宇宙の時の流れの中ではなんの意味も成さないのだろうか。