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京都ホームズSS『ある年の忘年会でのできごと』

「ホームズ、おまえ、葵ちゃんと二人きりの時に赤ちゃん言葉になってやしないよな?」

 ――12月末日。
 閉店後の骨董品店『蔵』で忘年会をしようという話になり、今店内には、僕――家頭清貴と、秋人さん、小松さん、円生、利休が揃い、酒を飲み交わしている。ちなみに葵さんはゼミの集まりがあり、終わり次第、顔を出すという。
 くつろいで宴会ができるよう、僕たちはカウンターではなく応接ソファーに向かい合って座っていた。僕と利休が並び、向かい側に秋人さんと円生が座っている。小松さんだけはカウンターが良いと体だけこちらに向けて座っていた。まずは、缶ビールで乾杯し、それがなくなる頃、小松さんが土産にと一升瓶を出した。顧客にもらったという京都の地酒だという。
 先の言葉は、その一升瓶が空になる頃、秋人さんが脈絡もなく言ったものだ。
「一体、なんの話ですか?」
 僕はお猪口を片手に、小首を傾げる。
 赤ちゃん言葉と聞こえたが、聞き間違いだろうか?
 実のところ、今、結構酔っぱらっている。洋酒には強い僕だが、日本酒は別だ。僕にとって日本酒は、他の酒よりもアルコールが回りやすいようで、頭がふわふわし、いつものように感覚が鋭敏ではなくなっていた。とはいえ、顔と口調ははっきりしているので、気付かれることはあまりない。
「実は、あの、超イケメンの市片喜助くんがな……」
 市片喜助さんは歌舞伎役者だ。『超イケメン』と秋人さんが言ったように容姿端麗で知られている。
 すると円生が、市片喜助て……、と天井を仰いだ。
「あの舞台でホームズはんを演じた坊やな」
 そう、相笠くりす原作の舞台『華麗なる一族の悲劇』で、喜助さんは僕がモデルだという探偵・神頭清里かみずきよさと役を演じている。あの舞台が公演されていた頃、円生は姿をくらましていたのだが……。
「舞台、観たんですか?」
「あの坊、タップダンス。めっちゃわろたし」
 円生は、くっくと肩を震わせる。
「…………」
 僕が笑われているわけではないというのに、苛立ちを感じるのはなぜなのか。僕が冷ややかな目を見せていると、
 「で、喜助さんがどうしたの?」
 と、利休が話を戻した。
 小松さんは、にやにやしながら聞き耳を立てていた。
 秋人さんはグイッと酒を飲み、テーブルにお猪口を置くなり声を上げた。
「喜助くんは、彼女――浅宮麗さんと二人きりでいる時は、赤ちゃん言葉になっているそうなんだよ!」
「……はぁ」
 僕たちは、揃って気の抜けた反応を示した。
「喜助くん、ちょくちょく麗さんに叱られるらしくて、それがたまらないって言ってんだ。赤ちゃんみたいに甘えたくなって、『ばぶー』って抱きつくんだってよ」
「ばぶー、ですか」
 喜助さんは厳しい歌舞伎の世界で育ってきた反動か、かなり『甘えん坊』な面を持っている。それに対して浅宮麗さんは、『私についてきなさい』という男前な女性だ。
 二人きりでいる時に喜助さんが赤ちゃんのように甘えているのは想像に難くない。
 話を聞いた利休が呆れたように肩をすくめた。
「……二人が何をしてようと勝手だけど、喜助さんもよくそれをわざわざ秋人さんに伝えるよね」
「ま、喜助くんもベロベロに酔っ払ってたんだけどな。その話を聞いて思ったんだよ。実はホームズもそんなことになってんじゃねえかって」
 そう続けた秋人さんに、円生、利休、小松さんは顔を見合わせて苦笑する。
「まぁ、ホームズはんならやってそうやな」
「え、清兄、嘘だよね。そんなことないよね?」
「あんちゃん、実のところどうなんだ?」
 皆に詰め寄られて、僕の頬が引きつった。
「期待に応えず申し訳ないですが、僕は葵さんにとことん甘えていますが、赤ちゃん言葉は使っていませんし、これからも使うつもりはありません」
 どうだか、と円生が肩をすくめた。
「とことん甘えてるんやろ? 時間の問題なんちゃう?」
「あんちゃんならありえそうだ」
「だろ、思うよな」
「やめてよね、清兄」
 と、円生、小松さん、秋人さん、利休が口々に言う。
「誓ってもいいです。赤ちゃん言葉は絶対に使いません」
 僕がそこまで断言すると、秋人さんはにやりと笑った。
「そこはやっぱ、ホームズ、最後のプライドってやつか?」
 いえ、と僕は首を横に振る。
「僕のプライドなんて、とっくに犬に食わせてますよ。ああ、葵さんに関してはの話ですが」
 犬にって、と利休が情けない表情で洩らす。
「そんなんじゃなく、これは僕の危機回避です。女性の不満は花粉症のようものですから」
「花粉症?」
 と、皆の声が揃う。はい、と僕はうなずいた。
「女性の不平不満は、本人も与り知らぬところで静かに蓄積されて、ある日突然発症――爆発するんです。その時、パートナーに対して目を瞑っていた部分のすべてが許せなくなるものなんですよ」
 僕の言葉を聞いて、小松さんが体を震わせた。
「うわっ、それはマジでそうだな」
「まぁ、言えてるだろうな。女の子って突然キレる時あるし」
 と、秋人さんも納得している。
「まるで、肝臓やな」
 円生は、くくっ、と笑った。肝臓は、異常があっても当人は気付きにくいため、『沈黙の臓器』と言われている。何をうまいことを言っているのか、と思いながら僕は話を続けた。
「カップルが視野狭窄しやきょうさくに陥っている時は、色々と許容してくれるでしょう。ですが、不満が表面化した瞬間、『何あいつ、キモッ』となるもの。とはいえ、僕が葵さんに甘えるのは避けられません」
「避けられないのかよ」
 と、秋人さんが少し呆れたように言う。
「ええ、ですので、最低限、赤ちゃん言葉にまではなってはいけないと思っています」
 円生は、ふぅん、と洩らして腕を組んだ。
「最後の一線ってやつやな」
「ま、そういうことですね」
 僕がうなずくと、小松さんが前のめりになった。
「ちなみにその一線ってのは、どこで引くんだ?」
「僕が思うに、友人に話して、受け入れられるか否かではないかと思っています」
 というと? と小松さんは首を捻った。
「つまり、葵さんが友人に『私の彼、二人きりでいるとすごく甘えてくるの』というのと、『二人きりになると赤ちゃん言葉になるの』では、随分な差がありますよね?」
 あー、と皆は揃って相槌をうつ。
 あのさ、と利休が挙手して、訝しげに訊ねた。
「それはそうとして、清兄は葵さんに対して赤ちゃん言葉を使いたいと思っているわけではないんだよね……?」
「え」
 僕は、滅多に思考が停止することがない。
 相手が葵さんとなると話は別だが、彼女以外の人物からはどんな質問を受けても、なんなら質問を受ける前から、『こんなことを訊かれそうだ』と想定しできていて、心に余裕をもって返答している。時に返事が間があったとしても、その時間も自分の中で計算に入れたものだ。
 しかし、今だけは別だった。
 素の状態で、すぐに返答ができなかった。
 僕は、葵さんに赤ちゃん言葉を使っていないし、これからも使おうとは思っていない。それは、少しでも気持ちが醒める材料を減らしたいからだ。
 では、そういうのを取っ払い、葵さんに赤ちゃん言葉を使いたいのかと問われれば……。
 時間にすると、0.1秒にも満たないかもしれない。
 葵さんに抱き着きながら、ばぶー、と赤ちゃん言葉を使う自分を想像してみる。柔らかく微笑みながら、僕の頭を撫でる葵さんの姿もだ。
 聖母のような彼女に愛しさが込み上がるが――。
「いえ、使いたいとは思いません」
 今、はっきり分かった。
「僕は、彼女と共に歩くパートナーで居続けたいのであって、彼女の子どもになりたいわけではないんです」
 ひと時、その胸に抱かれたいと思ったとしても、
「最終的には、僕が、彼女を抱きたいので」
 そう言い切った時、店の扉がカランと音を立てた。
 振り返ると、葵さんが立ち尽くしている。
「葵さん……」
 いつもの自分ならば、店に近付いてきた葵さんの気配にすぐ気付いただろう。が、今は日本酒のせいで鈍くなっていた。
 葵さんの顔がみるみる赤くなっていく。
「えっと、あの、私。コンビニでお菓子買ってきますね」
 話が聞こえたのだろう。葵さんは居たたまれなくなったようで、すぐに店を出て行こうとした。
「あー、これはあかんやつやな」
 円生が少し愉しげに言う。
 その通りだ。これは、あかん。確実に。
 恋人とのプライベートな話をあけすけに話していると誤解されたに違いない。それは間違いなく不満の蓄積になる。すぐに誤解を解かなくては!
 自分は、二人の蜜時の暴露をしていたわけではなく、赤ちゃん言葉を使わない説明をしていただけだと。
「あっ、葵さん、僕も行きます」
 と、僕は慌てて立ち上がり、彼女の後を追おうとする。急に立ち上がったことで、くらりとアルコールが回り、足がもつれて、倒れそうになった。
 あっ、と葵さんは振り返って、僕の体を受け止める。
「珍しく酔っぱらっているんですね? 急に立ち上がったりしたら危ないですよ」
 もう、と叱るように僕を見詰める。
 僕の胸が、きゅん、を通り越して、ぎゅん、となり、
「……あかん。分かってしもた」
 静かに洩らして、額に手を当てた。
「えっ、なにがですか?」
 葵さんはわけがわからないという様子で首を傾げる。
 叱られた時がたまらない、という喜助さんの気持ちは分かった。
 だけど、赤ちゃん言葉を使いたいわけではないし、これからも使うつもりはないことだけは、伝えておこう。

 自分の中であらためて誓った、それは、ある年の忘年会での出来事。

        ~fin~


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