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ピエール・ド・ランクル

フランスの異端審問官ピエール・ド・ランクル(1553~1633)は、ボルドーの名門裁判官の家系。イエズス会の教育を受け、敬虔なキリスト教徒であり、悪魔の実在を信じていた。

ランクルは、ラブール地方(スペインとの国境地帯)を中心に異端審問を行い、「600人以上の無実の女性を魔女として処刑したと」自ら、言明した。

ランクルは、ラブール地方のイギリス人にスペイン人やフランス人も含む女性達に「魔女の疑いがある」と因縁を付けて逮捕し、魔女の目撃談を、厳しい拷問によって、「自白」させた。
(拷問部屋に押し込み後はひたすら肉体的、精神的、性的な拷問を加えて自白させた)

ランクルの犠牲者はほとんど少女と若い女性ばかりで中には10歳の少女もいたと言われている。

ランクルは「魔女の印」を探して全裸にした女性達の全身を針で刺して検査することもした。

少女たちは、悪魔との性交渉について尋ねられても、性経験そのものが無いので、いくら拷問されても答えることができなかった。
結局、少女たちは。過酷な拷問に耐え切れず、ランクルが性交渉の方法を誘導尋問するという形で悪魔との交わりを、強いられ、供述した。

そして魔女と認定した少女たちを、次々に火炙りにし、殺したのである。

彼自身の強く異常な性欲により、拷問と称して少女達を痛めつけ、欲望を発散させていたに過ぎないかもしれない。

拷問もほとんどランクルの独断で行われていたことから「ランクル自身が、若い娘をレイプし、口封じの為に拷問して獄中死させ、殺害していた」ことも、多くあったようだ。

あまりにも少女や若い女性ばかりを逮捕し拷問するランクルを、疑問視し批判する教会から破門されかけたこともある。
それでも魔女狩りの職務を続行し、天寿を全うした。
現在ではイングランドのマシュー・ホプキンスと並んで悪名高い魔女狩り処刑人と称されている。

1609年以降、フランス国王アンリ4世の命により異端審問官に任命されたランクルは、同地方の「魔女集会」の実態を、「現地人の証言」との表現でて、ヨーロッパの知識人に伝えた。
※魔女集会情報については、10歳~19歳までの少年少女500人から集めた。
 (暗示にかかりやすい子供から証言を引き出し、魔女妄想を創り上げた)
ランクルにより、魔女にされた女性は、魔女集会での踊りや、宴の後の性的乱交について供述した。

女性たちは、「忌まわしい性交について沈黙を守る、恥じ入る、涙する」のではなく、「汚らわしく、淫乱な有様を語ることが、自らの栄光や快楽につながる」ように話し、ランクルを驚かせた。
「悪魔の命じるままに」
「彼女らは自然の摂理に反する振る舞いを平気に実行した」
「近親相姦がはびこり、告解者は聴聞司祭と、血縁や年齢や身分に関係なく交わった」
※ランクルの創作・捏造もここで織り込まれる。
大量の人間が極刑になり、追放された。
家族同士が告発しあい、殆どの家族は崩壊した。
そして、ランクルの断罪は厳しかった。
聖職者であっても磔刑、あるいは投獄が当然のように行われた。

ランクルの魔女狩りは、文明化した都会のエリートが、キリスト教化が遅れた山村や農村地帯の民衆の「性的寛容さ、大雑把さ」や「異教的習俗」の根絶を意図したものであったとの説もある。

彼は、魔女の実在と驚きの事実をアピールした。
(ピレネー山脈の奥地、ヨーロッパ文明と隔絶した一地方に実在した土着の集会を、古代からつながる魔女概念(妄想)と結びつけて、しかも脚色した。

ランクルと部下は、年齢・性別・精神状態に関係なく、「魔女」に仕立て上げて供述させ、焼き殺した。

ただし、「魔女集会の現場」などは、一度も見たことはなく、「全て過酷な拷問と尋問」による供述で、「想像上の魔女集会」を創作したのである。

そもそも、ランクル自身は、赴任地のバスク語を理解できなかった。
通訳を介して尋問したので、意図的な誤解や独断を行い続け、無実の人を際限なく殺し続けたのである。

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