「ナラト」と呼ぶ声が聞こえて、振り返るとそこには頬をピンクに染めたタマルが立っていた。

「もうそろそろ戻る時間？」

息を切らしながらタマルはいった。ナラトは円形劇場に設置された時計をみた。

「そうだな。夕食の買い物をしてから帰ろうか」

ふたりは一緒になって、市場の方向へ歩き出した。

「ナラトはいつも自分で食事を作るの？」とタマルは質問した。

「そうだよ。だいたい自分でこしらえる。料理が好きでね。昔は一緒に暮らしていた妹と二人分をつくっていたのだけれど、いまは一人分」

夕暮れ時の市場は賑わいをみせていた。ぽつぽつと街頭がつき始める。それはそれは、美しい景色だった。タマルは昨夜と同様に、街をうっとりと眺めた。オレンジ色の街頭に照らされて、人々の顔や街角は陰影を持ち、昼間とは違った印象を与えた。ナラトは迷うことなく一軒のお店に入ってゆき、そこでじゃがいもと新鮮そうな羊の肉を買った。それは、今日の昼に捌いたものだという。どこの家の羊かということをひとしきり話し、ナラトはお代を渡して、肉とじゃがいもを持っていた袋に放り込んだ。二人は店を出ると、てくてくと、もと来た道を歩き始めた。

「今日は何を作るの？」「クミンというハーブと、この羊の肉を一緒に炒めるつもりだ。僕のすきな赤ワインによく合う。じゃがいもは蒸して、熱々を手で割いてフライにするよ。新鮮な葉物野菜はまだ家にたくさんあるから、それに野菜のサラダも添えよう。パンも昨日の残りが半分のこっているから、それはチーズを載せて温めなおそう。どうかな？」

「わー！すごいごちそう！」

タマルは口の中に唾液が湧いてくるのをかんじた。

「早くかえりましょう！僕もお料理を手伝います。僕もいままで家ではいつもひとり分の食事を作っていたから、慣れています」

「よーし！」といって、ナラトはさっきよりも足早で坂道を登り始めた。

家に到着すると、二人は三十秒ほどソファーに腰掛けて、ふたたび立ち上がり、手を洗って夕飯の支度をはじめた。ナラトは生成り色のエプロンをつけて、黄色とライム色の明るい花柄のかわいらしいエプロンをタマルに渡した。

「これ、使って。妹が使っていたものだけど」

「ありがとう」

タマルは慣れた手つきでエプロンを首からかぶって、紐を後ろで結んだ。タマルはひととおり、キッチンのどこに何があるかを聞いて、今夜のメニューの手順を確認すると、まずはじゃがいもを蒸すためのお湯を沸かした。そして、きれいに洗ったじゃがいもは皮付きのまま蒸し器へいれた。乾燥してすこしだけ固くなったパンは食べやすい大きさに切り、少量の水を振って、チーズを載せてトースターへ入れた。葉物の野菜は食べる分をちぎって、ボウルに入れた冷たい水の中に浸して鮮度を取り戻した。その間にナラトは羊の肉の下処理をして、一口大に肉を切り、クミンと塩を振ってすこしだけ手で揉み込み、なじませた。フライパンにたっぷりのオリーブオイルを敷いて、そこに羊の肉を入れると、じゅっ！と食欲を掻き立てる音がキッチンに響いた。細く煙も立っている。それがまたよい香りで、タマルのお腹は反応し、

「ぐうっ」と大きな音を鳴らした。ふたりは視線を合わせ、同時に笑った。

タマルは引き続きてきぱきと焼きあがったパンをお皿に並べた。シャッキリした葉物野菜を大きめのボウルに入れて塩と胡椒をふって、オリーブオイルと、酢をスプーンいっぱいずつかけた。小さなオレンジがあったので、これをふたつに切って、絞り入れた。ふかしたじゃがいもは湯から揚げて、熱を逃がすために少し待ってから、ナイフで切れ目をいれて手でふたつに割いていった。小さめのじゃがいもだったので、ふたつに割くのがちょうどよい。「表面がぼこぼこしているじゃがいもはフライにすると歯ざわりがよくとてもおいしい。」ナラトがフライパンの中をかき混ぜながら教えてくれた。

あっというまに夕食の準備ができた。ナラトも驚いている。

「君は本当に手際がいいね。息もぴったりだった」

タマルは照れくさそうにはにかみながら、二人分の水を汲んで、ちいさくスライスしたレモンを絞り入れ食卓においた。

「乾杯」

ふたりはレモン水で乾杯した。タマルはクミンで香り付けした羊の肉を一口たべて、頬を抑えた。

「おいしい！」クミンはタマルには馴染みのない香草だった。

「こんな香りの食べ物は初めて食べました」

そして、パンをかじった。タマルは一心不乱にひとつひとつの料理を口にはこんで、夢中で味わった。ナラトの「君、本当においしそうに食べるね」という声もほとんど耳に届かなかった。途中、ナラトは自分だけのためにワインの栓を抜いた。ひとくち、またひとくちとグラスを口に運びながら、羊の肉を食べすすめている。そして目の前にいる、この不思議な魅力をもった少年のことをますます好きになっていることに気がついた。

ふと気がつくと、タマルはたべすぎたというような表情で椅子におかしな格好で座っていた。お腹が膨らみすぎて、座っているのも苦しそうだった。

「ソファーに移動したら」とナラトがいうと、目とくちびるをクシャッと縮めて申し訳ないような顔をしながらゆっくり移動した。タマルは大人のような顔をしたり、幼い子どものような顔をしたり、印象がくるくると変わる。（不思議な少年だ）タマルがソファーで横になっている間、ナラトは、グラスに入っていた残りのワインを羊のクミン炒めとともにゆっくり楽しんだ。

そうして夕食を終えると、ナラトは洗い物をしながら鼻歌を口ずさんだ。今日の午後に円形劇場で作った曲だった。タマルは目を閉じてソファーに横になったまま、ナラトの歌を聞くともなく聞いていた。鼻歌が聞こえるとすぐに、自分の体が温かいものに包まれた。ナラトの歌はいつもそういう不思議な感覚をタマルにもたらした。タマルもあてずっぽうにその歌声に合わせて鼻歌を歌った。それは、か細い響きではあったけれど、うつくしいハーモニーとなってふたりの鼓膜を震わせた。ナラトは重なるハーモニーを感じながら、タマルの声に独自の響きがあることに気がついた。むき出しの心で歌っているときだけに出る響きがそこにはあった。歌う時に大人だとどうしても構えてしまい、でてこないむき出しの響き。大きな腹を抱えて、目を閉じて、歌うともなく、鼻歌をくちずさむタマルは、そのことには気づきもしない。

ナラトは彼と一緒に何か曲を作ってみようと考えはじめていた。ふたりのなかに、なにか似た景色があるように感じていた。洗い物を終えると、窓の外を三毛猫が通りかかった。この窓の前の小道が彼女のいつもの散歩道となっている。猫は自分が見られていることにはまったく気づかない。

（さっそく明日から、はじめてみよう）ナラトはタマルと一緒に創作する算段をつけて、眠りにつくための支度をはじめた。タマルはもうすでにソファーの上で眠りに落ちていた。タマルにふかふかの毛布をかけてあげてから、ナラトは寝室に引き上げた。