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第208話 僕のアイデンティティー②


さて、昨日の続きだ。

長いと眠くなるゆかりちゃんのために、2話に分割した。あと、常々「長いと、読者には迷惑かなぁ」と思ったりしていたのだ。時間は有限で、その貴重な時間を、あまり大量に奪ってはいけないかな? そんな危惧を抱いてもいたのだ。


◆僕が大切にする『価値観』を見返す

僕は、自分で書いた第204話を読み返した。そして、また思考をはじめた。

価値観をビシッと整理したんだった。
そう、納得。自分が納得できるか。そして「最高の納得」が人生の目標だ。
尊重。そうだ、尊重だ。呼吸するように、普通に尊重するんだ。
そして、美だ。美意識だ。美醜での判断だ。
快! そう!「ああ、おもしろかった~」「ああ、気持ちよかった~」は大切だ。僕は、楽しい人生にしたい。
そして、そう。愛だ。慈悲の心だ。愛されるではなく、愛する、だ。
そして、創造。創るんだ! 創りたい!
・・・ん? これらがアイデンティティーか? 微妙だなぁ。
そして、長い。ゆかりちゃんなら「な~がっ!」って絶対に言う。もっと短く、シンプルに説明できないのかなぁ。
・・・アイデンティティーって、僕が僕らしい、僕を僕たらしめる、僕ならでは、ってことだろ。
愛とかって、誰にでも大事やん。
納得だって、尊重だって。自覚しているか無自覚かはあっても、本来、誰でも失くしちゃアカンってモノやん。それがアイデンティティーとか、「僕らしさ」ってオカシイぞ~。快も、半分か、それ以上の、大半の人には大事だろうし・・・。
納得、尊重、快、愛、これらは、『人として失くしちゃダメなモノ』だ。言うなれば、人間らしさだ。『人間なら、これらを大事に生きなさい』っていうモノだ。原則だな。
ということは、僕ならでは、僕らしさは、【美】と【創造】か?
これが、僕のアイデンティティーっぽいぞ~。

と、このように思考した。

だんだん【アイデンティティー】が見えてきた。


◆僕にとっての【 美 】とは

僕は、「美しいモノが創りたい」のではない。いや、美しいモノも好きだし、創りたくもある。

少し、ややこしいのだが、僕がこだわるのは、「美しく創りたい」なのだ。創る、手段や過程にこだわる。その『手段』や『過程』が、美しくないのは、絶対にイヤなのだ。


僕は、営業職の世界に長年いた。そして、そこでは「結果が全て」というセリフを、それこそ耳にタコができるくらい聞いてきた。当初は部下に、僕が「結果が全て」と語ったりもした。

ただ、語りながらも、違和感を抱いていた。

「結果が全て」という言葉は、「結果も出してないのに、なに能書きを言っちゃってんの?」という意味ならば、さほど問題はない。

問題があるのは、「結果が全てなんだから、多少ズルくてもかまわない」「オーバートークは、仕方ない」という意味になったときだ。30年前に入った会社の営業本部長は、「オーバートークは、売るためなら当然」「なにキレイごと言ってるの」「ウソの説明? 当然、必須のテクニック」と定義していた。

僕は、それがイヤだった。

さらにいうと、手段もキレイな方が売上が上がった。


僕は、手段を美しくしたい。方法を美しくしたい。

そのうえで、結果を出す。

方法や手段が「美しくない」のなら、僕は、結果が出なくていい。

僕は、この考え方ゆえに、年収2000万円のポストを捨てた。それ以来、意地でも『グレーの手段』を拒否した。

「ここで、これをするのなら、あのとき辞める必要なかった、ってことになるじゃないか」

そう思って、拒絶し続けた。


***


手段の美に、僕はなぜこだわるのか?

心当たりは、子どもの頃に聞いた、お母ちゃんの言葉だ。

「歌にもあるだろう。『ボロは着~てても~~♪ こ~ころの~~~錦~い♪』って。心がキレイじゃないとダメ。心がキレイなのが1番」

お母ちゃんが歌ったのは、水前寺清子さんの歌だった。今、調べてみたら『いっぽんどっこの唄 』というタイトルで、作詞は星野哲郎さん。

このときが、『源(みなもと)』となった。そんな気がする。

そして、僕は僕のズルさを自覚している。僕は清廉潔白な人物ではない。子どものころは生意気で、そしてズルかった。正々堂々となんてしていなかったし、正直でも誠実でもなかった。

なのに、正義感だけは強かった。

僕は、この一生をかけて、ズルい自分を克服したいのかもしれない。

子どもの頃の、真逆、の僕になりたい。

正義感を振り回すことの一切ない僕。そして、正直で誠実な僕。そんな僕になりたい。

僕は、この【美醜を判断基準にする】という自論に、『酔っている』と、自分でも、そう思う。

たとえ誰にも、理解されなくてもいい。それでも僕は、美醜で判断するのは「カッコイイ」と思う。やせ我慢と言われてもいい。そうだとも思うし。キレイごとだと、言われてもいい。そのとおりと言うしかないし。キレイごとな自覚があるのだ。


***


どうやら、僕の承認欲求は、ここから生まれていると思う。

この価値観ゆえに、そしてこの価値観を、認めてほしくて、評価してほしくて、たまらなかったんだ。

せめて、ゆかりちゃんには認めて欲しかったんだ。

評価して褒めてもらいたかったんだ。


いつからかは明確ではないけれども、少なくとも30年以上も前から、この53歳になるまで、「美しくありたい」「ズルしたくない」「美醜で判断し、美を選択したい」と思い続けてきた。

結果も出て、そして評価もされた。

評価されなかった時期も、評価された時期も、どちらも、この価値観は不動だった。揺るがなかった。


今。まさに今。

この価値観を大切にしているからこその『承認欲求』が生まれ、そのせいで、ゆかりちゃんを苦しめた。僕は、「自分は正しい」という思いに縛られ、他者を尊重できなかった。

今は、それに気がついた。気づいている。

そして、今、考える。

「この価値観(美醜で判断し美を選択する)を、捨てた方が良いのではないか?」

・・・。

・・・。

・・・。

無理だ。

この価値観は、僕は、捨てられない。

捨てることは、できない。

この価値観を捨てたなら、僕は、生ける屍になってしまう。生きている意味さえ、見失う。


・・・。

そういうことか。

これが、アイデンティティー、というものなのか!


確かに!

これを捨てるのならば、「変化」とか「変更」とか、そんなもんじゃない。

これを捨てるのならば、それは、寿命だ。

だから、草薙龍瞬さんは、「アイデンティティーの寿命」というワードを使ったのだろう。おそらくは、草薙さんが生んだ言葉なはずだ。


命と、等しい価値がある。それがアイデンティティーなんだ。

そして、それは僕にもあったんだ。

もしかして、ここを逆撫でする行為が、『逆鱗に触れる』ってなるのかな?(この検証は、別の機会にするとしよう。長くなるだろうから)


◆僕にとっての【 創造 】とは

今は、創りたいものがたくさんある。

NPO法人だったり、塾だったり、分譲マンションの管理会社だったり、リノベーション会社だったり、ベンチャーキャピタルだったり、ほかにもたくさんある。

小説も書きたい。脚本も書きたい。歌詞も書きたい。

創造欲も、僕は抑えられない。

「創造」は、みんなが持つ価値観ではないだろう。興味のない人だって、けっこういると思う。


◆僕のアイデンティティー

僕の、アイデンティティーは、

『美しい手段で創造すること』と、なる。

何を創るかは、コロコロ変わったとしても、変化や変更として受け入れられそうだ。

僕は、手段や過程にこだわりたい。それが、僕を僕とした生き方になる。ここを曲げたなら、姿かたちは僕でも、僕ではない。おそらくは、深い催眠術にかかっているのか、はたまた、宇宙人が僕の身体を乗っ取っているのか、そのどちらかだ。

そして、今の僕は、承認欲求を捨てられない。

認められたがっている。


僕は、以下のような人間だ。

【 僕は『美醜での判断を大切にし、手段や過程において美を貫き、その上で人の役に立つものを創造する』、という人生を選んだ。そして、世間から高い評価(手段、作品の両方)を得たい。それが僕だ 】


そして、評価は、僕の課題ではない。世間の課題だ。世の中の方々の課題だ。

僕は、なにもできない。僕の思う良いものを創る。それしかできない。


注意点も明確にした。

承認欲求があることを認める。その承認欲求ゆえに、人様(特に、ゆかりちゃん)に、迷惑をかけないように注意する。具体的には、「自分が正しい」という傲慢や妄想を捨てる。僕は、『承認欲求があるセコイ人間である』ということを、決して忘れない。


さて、結論だ。

僕のアイデンティティーは、こうなる。

僕は、美しい手段や過程で、僕が創りたいものを創る。そして、僕が創ったものは世の中から賞賛され、手段や過程も賞賛されると信じている。


そして、アイデンティティーだ。

「僕の」ではなく、アイデンティティーとは、いったい何なんだ?という疑問への、僕なりの答えだ。

アイデンティティーとは、その人が、意識・無意識にかかわらず、最も大切にしている価値観で、人類が原則的に大切にしている価値観以外のこと。その人ならではの価値観のこと。変更が不可能で、変更は『死』と、ほぼ同意になるほどの大切なものが、アイデンティティー。(変更可能ならば、それは『価値観』であり、アイデンティティーではない) 定義者:奈星 丞持


ゆかりちゃんの好みに寄せて、短く言うと、

アイデンティティーとは、変更不可能なその人らしさ       定義者:奈星 丞持

となる。

もう少しだけ、丁寧にいうと、

その人ならではの変更不可能な(変更は「死」と同レベルに値する)、その人の1番大切な価値観や主義。その人らしさ。  定義者:奈星 丞持

となる。


◆〆

昨日、ゆかりちゃんは、昨日の記事のラストのオチに、気がつかなかった。オチのまえに、記事が終わったと思ったようだ。

僕が、「まだある」と指摘して、それから改めて、記事を読んだのだ。

すると、

「わははは!」

「イタタタタ!」(まだ、アバラが痛いらしい)

「なんで書くのよ~」(ブラのこと)

「あはははは~!」

「全部書いてるやん!」

「あ~、おもしろかった」

と、笑ってもらえた。


ふと、僕は思った。

(アバラ、もう痛くないな)

(毎回「アタタタ」って言ってない)

「いたたたた、笑わせんで~、痛いんやて~」って、おもしろくてウケるから、ちょっとクセになって言ってるんじゃないかなぁ~)


僕の、妄想が当たっていようと、それを、ゆかりちゃんが全力否定しようとも、

僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。




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