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自己評価に根拠はいりません/他人を責めるより自分を癒す

自己評価に根拠はいりません。

理由や条件がついた時点で、それは自己評価のフリをした社会評価になってしまいます。

※その「社会」にも明確な基準はないので「仮想評価」というのが的確かもしれません

私はコレができるからスゴイ
私はアレを知ってるからエライ
私はこんなに努力してるからベッカク
私はフォロワー数がこんなに多いからホンモノ


こうした《条件評価》で心を固めていても、それは養生テープのような仮留めに過ぎず、すぐに剥がれてハートがグラついてきます。

穴の空いたバケツにいくら水を注いでもキリがないように、すぐ不安になるのです。

ガタついたハートを宥めるお手軽な方法は「自分より下の人間を見つけて批判すること」「自分より劣っている人を救済してヒーロー気分に浸ること」

今いる立ち位置から1mmも変化していなくても、自分より下にいる人間をみれば「ま、あいつよりゃマシだしな」と気分がよくなります。

宇宙は求められたまま「見下せそうな人や物事」をピックアップし素早く提供します。

それがジャンクであろうと麻薬的であろうと、求められたら与えるのが宇宙です。

しかし、そのように他者を見下して手に入れた慰めの自己評価もまた養生テープに過ぎません。

「その場しのぎ」には中毒性がありますので、乱用するとすぐ依存症になります。

他人を批判したい時
嘲笑い、見下して、得意になって安心したい時
世話をやいて、支配してコントロールしたい時

どちらの場合も「外側の評価」で「欠けた自己評価の穴埋め」をしようとしています。

穴埋めしようとする不安な気持ち、
その弱さをまず認めなくてはいけません。

ありのままの自分を手放しで評価できないのは、過去に植えつけられた数々の物差しがつっかえ棒になっているからです。

その物差しはある時には有効だったのかもしれませんが、基本的に不必要なものであり、現時点では悪影響しか及ぼしていないのだから、潔く手放すタイミングだと、不安な気持ちは告げています。

「捨ててくれ手放してくれ」というサインを
「誤魔化してくれかき消してくれ」と認識しまうと、アプローチが真逆になってしまいます。

自分を愛し、承認し、評価するのに
なんの条件も比較もいりません。

今ここに在る、故に完璧である。
それだけでいいんです。それ以外は蛇足です。

ボスの顔色を伺い、焦り、テストの点数や内申点を稼ぎ、競い、派閥をつくり、空気を読み、監視しあい、階級をうみ、席を勝ち取り、蹴落としあうような

「学校由来の恐怖と生存戦略」がいまだに心に巣食っているなら、そのシステムの中でいつまでも戦おうとする自分を迎えにいってあげなくてはなりません。

もうその学校はありません。

校則も教師も、スクールカーストも、テストも成績表もないことを受け入れ、廃墟で戦い続けるインナーチャイルドをお家につれて帰り休ませる必要があります。

他人の粗探しをしたくなった時ほど
自分の傷を癒すのです。

傷ついていない人は他人を見下しません。
違う価値観、違う選択も心から尊重できます。

無条件の自己愛が自然体になったなら、いちいち「ガッカリする人・物事」をオーダーしなくなり、宇宙も提供しなくなります。

ハートも安定して、身の回りにも心地よい関係が増えていきますよ。

自然栽培・オーガニック食品の生産者に還元します