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静寂と暗闇をたのしみたい

わたしたちが生活の中で静寂や暗闇を経験することは、今や大変に難しい。

日常はさまざまな音で溢れている。
人や動物の声、手を洗う水を流す音、テレビやラジオの音、電車の音、冷蔵庫の扉を開く音、車の音、パソコンのキーボードを叩く音、雨の音。
ふだんは意識していないから気にならないが、目を閉じて音に意識を向けてみると色々な種類の音で溢れている。

光もそうだ。
太陽や月のあかり、シーリングライト、道端の看板、間接照明、スマホのブルーライト、駅のホームの電光掲示板。
光がなければわたしたちはまともに生活することさえままならない。

音や光はわたしたちに多くの情報を与えてくれる必要不可欠のものだ。
それだけに、その反対にある「静寂」や「暗闇」は意図的に作り出さなければなかなか得られない。

そういった作り出された静けさを享受できるのが、いわゆる「劇場」という空間である。

劇場、映画館、音楽ホール、あるいは美術館やギャラリーでもいい。
これらは日常から隔絶された空間で、音と光が遮断されている。基本的には閉じた空間であり、演者と観客とが一緒になって「静寂」と「暗闇」を作り出している

物音ひとつせず灯りを落とした室内で、演者の一挙手一投足を、呼吸を、表現を享受する。音と光、たくさんの情報が溢れた世の中でなんという贅沢だろうか。

演劇や音楽の出し物は必ずしも静かな仄暗い空間で享受するわけではない。
静寂が必要なもの、笑い声が響くもの、酒と食事と談笑とともに在るもの。意図的に天井や壁のないものや映画の応援上映のような例外もある。

劇場空間には、作品やその目指すものに沿った「かたち」があるのだ。

先日、とある演劇を観た。

収容人数は200人程度の劇場で、役者や舞台装置も多くはない。開演の直前に客席が暗転すると、圧迫感をおぼえるほどの暗さと静けさに包まれた。

緊迫感に満ちた会話劇で、一切の無駄のない演出。息をつく音や微かな衣ずれの音さえ躊躇われる。

この作品には間違いなく暗闇と静寂が必要だった。

役者が時に激しく、時に静かに言葉が紡いでいく。そうして観客は役者が演じる役の記憶を追体験し、また舞台のなかに没入していく。


そのとき、突然異質な音と光が空間をつんざいた。


主人公が胸の内にしまった秘密を吐露していき、クライマックスに向けて緊張感の高まるシーンで、「ピコピコッ」と、この空間には似つかわしくない間抜けな音が響き、それと同時にわたしの眼前が明るくなった。
わたしの前の席に座った観客のスマートフォンがメッセージの着信を知らせたのだ。

一瞬の間。

極限まで細く細く張りつめていた緊張感の糸が、ふっと弛むのを感じた。
あぁ、と周囲の観客が息を吐く。

その後、また役者は言葉を語り出す。

わたしは少し落胆し、それからまた役者たちの生きる役に見入り、すぐに舞台の上の世界に潜り込んだ。
最後まで糸は途切れることなく、物語を終えた。

結論として、舞台は面白く観た。見ごたえのある作品だったし、観てよかったと思えた。
ただ、あの一瞬の間がなければどうだったんだろう、とも思う。

スマートフォンの着信問題に対しては、劇場としても手は打たれている。
電波を抑止し、圏外を作り出す装置が設置されている。しかし、昨今では抑止ができない周波数帯が出てきているため、完璧には遮断できないという。

携帯電話等、音の出る機器の電源をオフに……

そういったアナウンスは劇場に一度でも足を運んだことのある人なら聞いたことがあるだろう。

オフといったら、オフなのだ。

おそらく劇場や音楽ホール、映画館などに足を運ぶ機会は多いほうなので(美術館やホールではアルバイトもしたし、演者として舞台から客席を見ることもある)、さまざまなケースを経験している。

・そもそも電源の切り方がわからない。

・機内モードにしていたけれど、毎日薬を飲む時間に設定していたアラームが鳴った。

・マナーモードにしていたけれど、バイブレーションがオフになっておらず、キーホルダーの鈴に触れて音が響いた。

・時間を確認したくて鞄の中で画面をオンにしたら暗転した客席が明るくなった。

等々……

オフといったら、オフなのだ。

スマートフォンは便利なツールではあるが、時として、ほかの観客の劇場体験の機会を奪うものとなる。電子的な音や光は、思っている以上に目立つ。

まあ、そんなこと、わかっている。

もう携帯電話が世の中に普及してかなりの年月が経つはずだ。

もう、わかっているだろう。

ただアナウンスしたり、スタッフが直接客席に呼び掛けたりするだけでは駄目なのだ。
もう何度も何度も何度もその瞬間に劇場全体が落胆するのを、役者と観客が一体となって作り上げた空気ががらりと色を変えるのを、何度も感じてきた。

新しいしくみが必要だ。

わたしならどうするだろう。

電源の切り方がわからなくて困っている人には直接やり方を教えよう(そういうマニュアルになっている劇場やホールもあるはず)。
あるいは劇場に入る段階で電源をオフにしたい。これはチケットもぎりのスタッフがチェックするしかない。
ほんとうはホール内は持ち込み禁止にしたいくらい。でもそれは現実的ではないだろう。

画期的な案は浮かばない。

でも、このところずっと考えている。

今日もそのことを考えながら、映画館の席についてスマートフォンの電源を切った。


ややあって。

視界に明るいものが入ってきた。



あぁあーーー!!!!!またしても!!!



わたしの前に座った人がスマートフォンでLINEか何かを開いていた。



自分の席運のなさを呪うとともに、これは何かの運命だと思って下書きのまま寝かせていたこの薬にも毒にもならないnoteを投稿した次第。

せっかくお金と時間を使ってたのしむものだから。お願いだから暗闇と静寂を心からたのしませていただけませんか。
そしてスマートフォンの小さな画面から解放されて、贅沢な空間をたのしみませんか。

何か、いい方法がないものかなあ。


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