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美しい愛を黒く染めない方法

妙法蓮華経に執着は悪きだと書いてある。

強い思いは相手にも自分にも重荷になる。愛情と執着は密接に関わり合い互いに影響し合っている。だからこそ、愛情が執着に変わりそうになったら捨て去るべきだ。

何も嫌いになるとか、愛を消滅させるわけじゃ無い。自分が苦しくならない距離を保ち、自分の心へ浮かぶ相手への愛を感じ続ける。

相手の為に何かをしたいと思い、それが自分にとって負担にならないのなら施せば良いのだ。

自分がどんなに愛情を注ぎたくても、それを相手が望んで無いのなら、ぶっかけるべきではない。また愛情を注ぐ事が自分にとって何らかの負担があるのなら、やはりかけるべきでは無い。

自分を含めた誰もが幸せになれる負担のない愛情こそが、正しい愛なのだ。


私は永遠に愛している事を宣言出来る。その愛が執着に変わり、私にとって苦痛をもたらす事がないように調整されるからだ。

自分の胸の中に有る愛を分析して、相手も自分も幸せになる方法を追求して行けば、図らずとも正しい愛の形に調整される。

もし自分を犠牲にして愛を保とうとすれば、それは真の愛ではありません。犠牲を払って得た愛を受け取って幸せだと感じる人はいません。自分がその立場になったときのことを考えれば、その理由が理解できるでしょう。

無償の愛とは、見返りを求めずに相手に提供する愛です。これは、毎日食事を準備してくれた母親や、子供の頃にお菓子や、お小遣いをくれた大人たちのように、当たり前のことすぎて気付かないほど小さなものかもしれません。挨拶や笑顔を見せること、悲しんでいるときに優しい言葉をかけてくれることなど、些細な気遣いも愛情の表れです。自分に向けられた沢山の無性の愛を思い出せば、自分がどれだけ愛されているかを感じ取る事が出来るでしょう。


愛を醜く染めるのは、自分の我欲です。欲が勝り、執着が生まれたとき、かつて美しかった愛は醜く変わっていきます。そうなる前に、愛を放出して特定の誰かだけでは無く、多くの人に向けてその愛を広げることで、自分自身、愛する人、そして多くの人を幸せにすることができるのです。

これこそが、強い愛の正しい使い方だと私は悟りました。かつてキリストが説いた「隣人を愛せよ」と言うアガペーの論理に、たった一人の女性を愛した事により、私は辿り着いたのです。

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