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HOUSE OF GUCCIの感想


HOUSE OF GUCCI 面白かったです。

まず「実話ではない」し「そこに真相はない」。
実話をベースにめちゃくちゃ省いたり盛ったりしたフィクション。

「実話」「真相」「真実」って基本的に「ない」か「全部が全部そう」のどちらかなのでご注意下さい。

映画開始時に1.5秒ぐらいだけ「史実に基づいた創作です」のような表示があったけど、宣伝で「真実」という言葉を使って話しているやりくちと相まって、短すぎる表示は悪質な意図のもとに行われているのではないかと思いました。

“史実です”と銘打たれている創作物も基本的にフィクションですし、いうたら歴史の教科書も解説本もすべてフィクションなのですが、その前提が共有されていないことをわかった上で、このようにやりましたね?と理解しています。


とても面白い映画だったのでしつこく話しますが、ハウスオブグッチはフィクションです。この作品を誤解した人々によって実在の人物の名誉が毀損されないよう強く願っています。

(ネタバレあります)


レディガガ最高
!彼女みたいに「もうやるしかない」って腹をくくっている人が演じると、すべてに一定の説得力が発生する。面白かった。

どういう切り口の映画なんだろう?オシャレなのかな。と思って見に行ったのですが、全員真剣すぎてコメディにしかならないタイプのコメディでした。
「牡丹と薔薇」とか好きな人は好きだと思う。作中一番好きなセリフはアルドの話す「死だ!!死だ!!」です。革に使用している牛を食わされるシーンも良かった。

絶え間なく真剣全力ギャグシーンが続くので、映画館で寝ちゃうタイプの人も、映画を家で1本観る集中力が保たない人も、全部楽しく観られると思う。
「人生は悲劇」みたいな話で疲れたときによいのではないだろうか。深刻に感情移入して作品を観るタイプにはキツいと思うし、パトリツィアの娘さん(実在)のことを深刻に考えてしまうタイプが、人格を切り替えずにこの映画を観ることは多分無理。ゴシップの皿に載せられて下品な妄想をされたことがある人はきっと辛い。

「邪悪」は絶え間なく煮詰めていくと、透明度が上がって「純粋」と見分けがつかなくなることがあるのですが、そのあたりがわかりやすく描かれていた。

全員本当に真剣。そうあるべきだと思います。
全員メチャクチャなのですが、人生ってわりとメチャクチャなので、ある程度のメチャクチャは採用したほうがいい。さもなくば奴隷みたいなところがあるし…。
利益対立しない人への優しさとか、よその人生を奪わない方策とか、金・権力以外で見つけられる自身の生活の中で手に入る価値は用意したほうがいいけど、基本的にはメチャクチャで良いと思っています。

愛される者でもなく、奪った者でもなく、「愛した者と、知る前には二度と戻れなくなるようなものを与えられる者が勝ち」という価値観が私の中にはある。
それは精神については清廉でも邪悪でも良くて、とにかく都度の目的のために「きちんと挑戦していく」マインドが大事です。という判断に基づいたものです。
フラれたことないのがかっこいいって、どうなの?みたいな話。

それでいうとこの作品の登場人物たちは皆かなり「勝っている」と思います。
みんな色々与えている。渡している。


ライター(編集者・ディレクター)の内田正樹さんが仰っていたけど、音楽の使い方が完全に昼メロ。ラブシーンで流れる音楽に爆笑。監督さん84歳なんですってね?その歳までこの精度で悪人であり続けるのは大変なことだっただろうな。

レディガガ演じるパトリツィアが、目的(金と権力が欲しい)に対して徹底して素直・実直だった。マウリツィオと付き合うために真知子巻きでストーキングを行い、図書館?大学?本屋?に潜入して「偶然だね!」みたいに再開を果たしたあと、マウリツィオのスクーターのガラスに口紅で自分の電話番号を描く様子は、かなり漫画的だった。

初対面の時、他の女のパーティで会ったマウリツィオ(夫)に「私のほうが楽しい女よ」みたいに告げたことを忘れたように(多分忘れている)、後に夫の浮気相手(その時点で不貞の事実はなさそう。気配の問題でしかないようにとれる)に対して「私はフェアな人間」「人のものを盗むなと娘に教えているところ」のような牽制を入れてた流れ、すごくあるあるですね。全力なんだよな、わかるよ。最悪だけど。

もっと短期間でこれぐらいテキトーに話してる人(本人は真剣そのもの)はよくいる。これは自分で気づけるタイプの性質じゃないから、実態がどうあれ前提として「自分もそう」と思う必要があるよなあと思う。「かもしれない」では足りない。

なんでその必要があるかというと、薄くでもそう把握しておかないとマジでヤバいことをやっている時に、本当に誰も止めてくれない。(本作においては殺人の企図と実行など。止めてもらえない。)止められたい場合は、これを自分事として捉えておかないとマズい。

狂気に触れるのは基本的に狂気だけなんだが、自省のない狂気は雪だるま式に膨らんでいくので、ある一定の大きさになったところで誰にも止められなくなる。
そこに手を出しに行く人というのは「危険が見えていない」か「人殺しにためらいがない」かのどちらかなので、その状態の他者介入は、狂気の雪だるまからすると「この転がり方は正しい」の確信材料になることのほうが多い。

そもそも人の狂気に逆流する形で触るのは危険。報われないことも多いので誰もやりたがらない。「他人の狂気を見て不安になるということは、自分にも思い当たる節があるってことでしょう。私は違います。」のように考えて、狂気や保身を他人事にしてる人が、誰にも助けてもらえずによろしくない状態になっているのは、道を歩いてるだけでよく見る。私は、マズいことをしようとしているとき、友達や家族からそれを止められたい。止めても大丈夫なんだなという確信を渡していたい。

現実でパトリツィア状態(殺人はやっていない)になっている人のことをどう受け止めていいのかよくわかってなかったけれど、「殺人犯にならず、殺されてもいなくてよかった。あなたが絶え間なく過去の自分を殺しながら変化していくのは面白いね。見過ごせないぐらい危なそうだったり、助けを求めている雰囲気を感じ取ったとき“可能そうだったら”助けますね」でFAなのかなと思った。

パトリツィアが謎の占い師と会ってるシーン全部面白いです。
占い師「あなたは制止不能よ。言って、わたしは制止不能」
パトリツィア「わたしは制止不能ッ」
すごいコント。

わたしは控えめな人たちが控えめにやっている映画が好みではないので、これぐらい全員やりたい放題していると見ててスッキリする。これぐらい配慮・自省のないやりたい放題の人はわりと現実にいるので、露骨な形のものを予防接種的に見ておくのもよいのではないかなと思った。これが笑えないトーンで描かれてたら、登場人物たちのような万能感が欲しいタイプに囲まれてる最中の人はキツいだろうな。
適切な距離を取らないとヤバいタイプというのは誰にとってもいます。適切な距離が必要。


あんま関係ないかもわかんないんですけど、

パトリツィアが離婚阻止、自身の金と権力を手放したくないがために、娘の存在やアルバムを振りかざしたり「私の目を見て。これが娘を守らない人間の目に見える?」のような話をしているのを見て、「大学受験って受験者本人の気が狂うより前に親御さんの気が狂ってしまって大変だったりする場合があるよなあ。“あなたのためを思って”の悪用は頻発している」と思い出した。この土日、センター試験だし。受験の追い込みっておかしいし、お金もかかるし、支える側も大変だろう。感情がメチャクチャになってしまう場合、どうか適切な医療や支援に繋がって欲しいなと思う。親サイドの気が狂って「絶対に思ったように成果を出せ」と受験生に要求してしまうと大変だよなと。

受験生が、親サイドの言いなりに「限界を超えた勉強マシン」と化して成果を出せば、なにもかもうまくいき、世界から賞賛を受け、永遠に苦しみから解放される。みたいに思い込んでしまう親御さんはよくいるように思う。

そう思ってしまう人の遺伝子から発生し、マシン教育を受けた人々が、「他の全てをかなぐり捨てて勉強マシンになり、大学に合格した」ところで大変だと思う。
「何を愛したらいいのかわからない」「何をしていいのか分からない」「自分がこれだけしたのだから絶対にこれだけのものが返ってこなければおかしい」状態になって、大変になる人は多いのではなかろうか。
子供の仕事って「この世に期待して、楽しむこと。その結果として愛したいもの(人間に限定しない)を見つけて、愛したいもの(人間に限定しない)と一緒に生きていけるような大人になること」だと思っています。
期待の主体にならず、期待を受けて奴隷をやっていれば、いつか自分も奴隷が手に入る(奴隷しか手に入らない)みたいな教育が、スタンダードな地獄としてこの世に顕現しているような気がするので、大変なんだよな…。全員楽になってほしい、本当に。

「蛙の子は蛙」という言葉、命を発生させた側には念頭に置いていてほしいことだと願わずにいられないけど、難しいこともあるんだろう。(“親子でも魂は別”なので、この言葉を呪いに連なるものとしては受け取って欲しくない。都合良く元気になれる話だけ受け取って元気に暮らして欲しい。)

追い詰められて大変な状況の受験生の方とかいらしたら、どうか「本当にそうなんだな、ありがたいな」と思えない「あなたのために」は真に受けず(先方は本気だし、しっかり受け取らないとまずいかな等思わず)さっくり見下してしまって、必要なこと、つまり「あなたが愛したいものを愛していけるように」に集中できるよう祈ります。

人、おそらくマシンになるより、よく寝たり、自分の感情…愛憎、清潔と不潔の境目、喜びや悲しみ、快と不快がどこにあるのか見つけたりすることのほうが大事で、人生の納得度とか予後がいい。多分。
どこにどう転がろうと人生は続くから、私は私の好きな人や、私を好きな人たちが愛したいものや、震えるほどの喜びが見つかり続けると思って暮らしていたら嬉しいなあと思っています。


映画の話に戻ります。


マウリツィオなあ、こういう人ってセックスの最中女の頭がガンガン床とか壁にぶつかってるの気にしなさそうだよね。
「控えめ」だからといって「善良」であるとは限らない。真面目そうだからといって思いやりがあるとも限らない。

すごくどうでもいいけど、作中で描かれた性交渉シーンは、このカップルの初体験なのではないかなと思った。傷つきやすい童貞を落とすには、アクロバティックセックスさえあれば充分という思想を感じる。それはそうなんだろうけどやめろよ。リドリースコットさんは、さしてモテない男性たちを恐怖の坩堝に叩き落として何がしたいんだよ!たぶん楽しみたいんだと思うので、男性各位は好きな女の子ができたら、もっと楽しいことをたくさんやったり仕掛けたり、失敗してきちんと傷ついたり治ったりできますように。

この映画、「真実」みたいな宣伝のやりかたとあわせると、普通に人権侵害なのではないかと思う。この映画を見たあと、ゴシップ的な切り口ではない実在グッチ家の記事にあたる人はどれぐらいいるんだろう、その上で、グッチ家の人生について配慮する人がどれぐらいいるんだろう。「史実を元にしたフィクション」の“フィクション”部分に重きを置いて捉える人がどれぐらい少ないだろう。

出所後を生きている実在パトリツィアさんや実在子孫が「変な噂をたてられて、名誉や信用を失う」ことにならないとは言い切れない。公知の事実が作品のベースだとしても、訴訟前提でやってるのかしら。権利関係詳しい人が批判している記事も読んでみたいな。

フィクションがフィクションであるということを「わかっている」人たちからすると「この世の創作物はすべてフィクションです」って前提をわざわざ話すのはとても野暮なことなんだろうと思う。そこが飲み込めない人からすれば「何言ってんだコイツ」なのかもしれない。けれど、こういう話は誰かがしておいたほうが良いと思ったので、しました。

実在のパトリツィアさんは犯行後に脳腫瘍の手術をしたりしていたそうで、人間って身体トラブルによって人格が変わったりすることもあるから、被害者や加害者が0に近づくために、すべての人が適切な医療につながることは重要だし、ストレスを溜めないことも必要だと思う。「脳腫瘍患者はそれ以外の人間と比較したときに危険」という話ではありません。人は全員危険です。

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