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【第9回】研究② 日米通商条約勅許問題

今回は、幕末期において、幕府と朝廷が対外政策をめぐり意見が対立するきっかけとなった、日米通商条約勅許問題とその後の展開について整理します。

朝廷に対する幕府の統制力

江戸時代の国家権力、すなわち公儀は、天皇のおわす朝廷を組み込む形で構成されていました。
しかしながら、禁中並公家諸法度の制定、それに基づく紫衣事件(寛永4年・1627年)や尊号事件(寛政1年・1789年)に見てとれるように、事実上は幕府が朝廷を統制する権力を維持してきたのです。

●紫衣事件…禁中並公家諸法度の規定に反して、後水尾天皇が幕府の了解を得ずに大徳寺などの僧侶に紫衣着用を許可したことは違法だとして、幕府がこれを取り消し、抗議した大徳寺の沢庵らに処分を下した事件。

●尊号事件…光格天皇が実父である典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたが、幕府に拒否された事件。老中松平定信は大政委任論を根拠に、中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下した。

そのパワーバランスに変化が生じたのは幕末期。異国船の来航の情報に危機感を高めていた朝廷は、幕府に対して対外情勢の報告を求めるようになり、それを端緒に対外政策に介入する道を開き始めました。

一方の幕府にとっても、220年間にわたって続いた鎖国状態が破られるという国家未曾有の大転換期にあたって、挙国一致の体制のためにも朝廷と危機意識を共有したいという思いがありました。

日米和親条約締結の事後承認

安政1年(1854年)に締結した日米和親条約では、幕府は調印について事後に朝廷に報告していました。報告内容は、国防態勢不備のため、やむなく寛大な措置…すなわち漂流民の救助、来航米国船への燃料や食料の給与、そのために下田と函館を開港するというもの。

これに対して朝廷では、国防態勢不備では和親条約調印もやむなしと同意したうえで、このまま推移すると国家は疲弊し将来的に不安だという孝明天皇の憂慮を伝え、将軍は「神州の瑕瑾」なきよう指揮せよと指示しました。

この承認は、鷹司政通の主張で決まったと言いますが、朝廷内には納得できないことへの不満、批判がくすぶっていました。

日米通商条約勅許問題

安政3年(1856年)、アメリカ総領事ハリスが下田に着任すると、今度は通商条約の締結を求めてきました。
ハリスはアロー戦争の戦況と日本への影響を心配する幕府に対し、「アロー戦争が終結の折には英仏露が日本に押し寄せるだろう、その前に、紳士的な我がアメリカと条約を締結しておくべきだ」と脅迫に近い形で迫ってきます。

交渉を続ける中で条約締結を拒否することは現実的でないことを悟った幕府。
諸大名に対して条約締結の方針を説明し説得につとめます。尾張藩主徳川慶恕(のちの慶勝)や仙台藩主伊達慶邦らからの「朝廷の勅許を得るべきだ」と意見や、そもそもの反対論の存在に配慮した幕府は、朝廷の勅許を得てから条約に調印することを決め、老中堀田正睦を京都に派遣しました。

勅許はおろか、勅答も得られず

和親条約の時は事後承諾を得られたので、今回も難なく理解を得られるだろうと、堀田は気持ちに余裕を持って京に向かいます。

ところが堀田を待ち受けていたのは孝明天皇の大反対。
開国論者の鷹司政通や関白・九条尚忠のパイプを使って、開国や通商条約締結のやむを得ざる状況を説明し納得を得ようとしますが、数か月待っても望んだものを得られません。

結局、朝議の結果として「諾否いずれとも決断できないので、幕府の方で判断してやってくれ」という事実上の白紙回答案(勅答案)が作成されます。
これは勅許はおろか、結論の先送りに他なりません。

廷臣八十八卿列参事件

しかもこの回答案に反発して、朝廷内では大納言中山忠能などが条約締結反対論を展開。近衛忠煕や三条実万など有力公家たちの反発行動は、予想を超えた規模にまで広まり、現任の納言と参議の13名が連名で勅答の変更を迫る意見書を武家伝奏に提出すると、88人もの公家が御所に集まり、勅答撤回の要求を突きつけるという事件が起こりました(廷臣八十八卿列参事件)。

この公家列参の首謀者については、武家伝奏の久我建通が孝明天皇の内意を受けて岩倉具視や大原重徳と語らったという説と、岩倉が主に画策したという説がありますが、いずれ岩倉が重要な役割を演じたのは間違いないようです。

これらの事件を受けて、勅答案は「将軍は諸大名に命じて意見を徴して評議し、天皇はその内容を幕府から聞いたうえで判断する」という内容に変更されました。

条約に調印したい幕府と、今はしたくない朝廷。二つの権威は対外政策をめぐり意見が真っ向から対立します。これは国政レベルの政策で国会意思の分裂が生じたことであり、公武一致の破綻という、江戸時代初の出来事でした。

彦根藩主井伊直弼の大老就任

堀田は慨嘆して江戸に戻りますが、この勅答を受けて幕府では、朝廷と幕府の間の意思の不一致、将軍継嗣問題の切迫という事態を迎えます。

この難局を乗り切るため、登場したのは彦根藩主井伊直弼。大老に就任した彼は、日米通商条約を勅許を得ないまま調印、また将軍継嗣に紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂)に決定し、続いて反対派の弾圧を行うなど、幕藩権力の存続・維持をはかる強硬策を推し進めました。

戊午の密勅

井伊の強硬策に対して朝廷は反応します。
孝明天皇は断固として通商条約を認めず、攘夷を心に決めていましたが、幕府からの回答はなんと日米通商条約に調印したというもの。

しかもロシアとも通商条約を締結し、イギリス、フランスともアメリカとの条約に準拠して締結する方針であることが伝えられます。朝廷は御三家または大老の上京を求めますが井伊は応じず、そのうちに井伊が兵を引き連れて上京するといった噂が流れる始末。

蔑ろにされていると感じた孝明天皇を動かすかたちで、左大臣近衛忠煕、右大臣鷹司輔煕、内大臣一条忠香と三条実万が揃って参内し、幕府にもの申そうと「御趣意書」の送付を決定、さらに水戸藩にも送ることが決められました。

この御趣意書の内容は、
●通商条約調印の事後報告は不審である
●朝廷と幕府の不一致は国内の治乱に関わるので、公武合体が永久に続くようにと思う
●徳川斉昭らの処罰について、難局にあたって徳川家を扶翼する家を処罰するのはどうか、心配である
●大老・老中をはじめ、御三家から諸大名に至るまで郡議をつくし、国内が治まり、公武合体が永久に続くよう、徳川家を扶助し、外国の侮りを受けないように
するべきだ
というものです。

この御趣意書が「戊午の密勅」と呼ばれるものです。
通商条約については絶対反対を主張し、その天皇の意思を踏みにじった幕府を問責するこの勅は、幕府に並んで水戸藩にも下され、水戸を通じて親藩大名家にも伝達されました。
天皇としては、揺らいだ公武合体を回復し、諸大名に将軍徳川家を盛り立てるよう命じ、国論の一致による藩主階級の統一強化を狙ったのかもしれません。

安政の大獄へ

しかし勅定を幕府のみならず水戸藩に直接下したということは全く異例で、大政委任の枠組みを逸脱しているもの。この天皇の行為は幕府を刺激し、激しい反発を引き起こします。

結果的に多くの有為の人材を死に追いやる…井伊による安政の大獄、すなわち天皇と公家に大きな影響を与えていた尊皇攘夷の志士と一橋派への一連の弾圧を、誘発することになってしまったのでした。

参考文献

この記事は、主に藤田覚著『幕末の天皇』講談社学術文庫を参考にしました。


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