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【第11回】星亮一 著 『井伊直弼 己れの信念を貫いた鉄の宰相』

通商条約締結、将軍継嗣問題に揺れた幕府に突如現れ、日本史の大転換をはかった彦根藩主井伊直弼の生涯を描いた、星亮一氏の小説『井伊直弼 己れの信念を貫いた鉄の宰相』を紹介します。

部屋住みから藩主へ

井伊は文化12年(1815年)、11代彦根藩主井伊直中の十四男として生まれます。
父の隠居後に側室との間に生まれた庶子であったことから、彼に藩政を藩政を担うことを期待する者などはおらず、埋木舎と呼ばれる屋敷で宛行扶持で暮らす生活が32歳になるまで続きます。

井伊の人生が動いたのは弘化3年(1846年)、江戸にいる藩主直亮から出府の命が下ります。世子の直元が病死したことで、井伊に次期彦根藩主という思いがけない話が浮上したのです。

以降は世子として江戸に住まい、直亮の在国時は代わって江戸城溜間に出仕したり、他大名家と交流を持つなどして活動を広げていった井伊は、嘉永3年(1850年)、直亮の死去を家督を継ぎ彦根藩主となります。

部屋住み15年、世子5年、合わせて雌伏20年。ようやく彦根藩の頂点に立ち、思い切って政治を進めることができるのようになったのでした。

彦根藩主として

「君は民を子とし、民は君を親となす。余は民生に意を用い、あまねく領内を巡視いたす。合わせて弘道館を改革いたす。文武を鍛え、国家に役立つ人材の育成にあたる」と格調高く藩主就任の挨拶をした井伊。

藩主として全ての領民に対し責任を持ち、広い視野と大胆な決断で政務にあたらなければならない、そう心に決めた彼は、藩財政を圧迫する諸課題に着手、減税や遊郭の領外退散などの改革を進めます。

黒船襲来

嘉永6年(1853年)にペリー率いるアメリカ艦隊が来航すると、彦根藩にも緊張がはしります。

当時藩校の教科書に採用されていた儒臣の中川漁村の『西洋一覧』には、「我が国がなすべきことは、門戸を開き、彼らの学問を我が国に入れ、我が国も軍艦、大砲を造り、列強に対抗するしかみちはなかろうと存ずる。水戸の攘夷論などもってのほか」と開国の重要性が説かれています。

しかしその水戸や朝廷との関係悪化は避けたい彦根藩としては、ひとまず時の老中阿部正弘の手腕を静観する態度を選びます。

大老就任

対米外交政策に奔走した阿部正弘は老中の座を堀田正睦に譲り、堀田もその後の通商条約問題で苦心しました。
同時に13代将軍家定の継嗣問題がいよいよ喫緊の課題となる中、将軍による幕閣の大改造という、井伊にとって重大な転機が訪れます。

これまで目立たなかった彦根藩の井伊が大老に就任し、条約問題と継嗣問題を引き受けるという「政変」とも言える人事が発表されると、幕府内でも諸藩でも、まさに晴天の霹靂と言わんばかりの大騒ぎ。

しかし国政への舵取りの意欲はある井伊、大役への打診に一度は断りを入れたと言われますが、その責任を全て引き受ける覚悟を持って、腹心の長野主膳とともに江戸城へ登上します。

改革と弾圧

大老に就任した井伊は諸課題の解決に向けて政策を強行します。

日米通商条約には無勅許のまま調印に開国し、将軍継嗣には紀伊藩主・徳川慶福を決定。
対抗勢力を衰えさせるために、安政の大獄では戊午の密勅に関与した公卿らを処分、一橋派の中心である御三家の藩主の行動を封じ、彼らの勢力を支える尊皇攘夷志士を粛清しました。
幕府内でも政治方針が異なる者は次々に罷免、まさに独裁です。

弾圧の一方、開国後の日本の地位を少しでも高めようと、日米通商条約の批准交換使節を米国に送ります。

この時、軍艦奉行・木村喜毅、教授方頭取・勝海舟らが率いる咸臨丸が、批准書を載せたアメリカ海軍ポーハタン号を警護する目的で太平洋を横断し、サンフランシスコに渡りました。
世界に門戸を閉ざしていた日本が、292トンの蒸気軍艦で自国乗組員の舵により太平洋を横断するという快挙を成し遂げたのは、ペリー来航からわずか7年後のことでした。

桜田門外の変

しかし江戸にいる井伊に対して、強硬策への反対派の憤激が高まります。
万延1年(1860年)3月3日、水戸浪士17人と薩摩藩士有村次左衛門とが、大雪の中を登城する井伊直弼を襲いました。
最初に短銃で撃たれて重傷を負った井伊は駕籠から動けず、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くも抜刀する間も無く刺客たちに切り伏せられてしまいます。
刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の井伊を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。
井伊直弼 享年46歳。

作品における井伊直弼評

作品の中で著者は、井伊直弼の評価は二つに分かれていると述べています。
一つは外圧に対処し、日本の危機を救った類まれな政治家。
もう一つは維新の志士を弾圧した反動の人。
評価が定まらない意味で、この人物ほど悲運の人もいないが、日本の近代はこの井伊から始まったと言っても過言ではない…。

強い政治は保守反動だと言われる。しかし直弼の政治を、そうした範疇で捉えるのは誤りである。異国人は犬や猫と同じだという京都の勢力の説得にあたり、どうしても駄目だとわかるや、己の責任で日米通商条約を結んだのである。これによって日本の植民地化の危機は回避され、明治維新を迎えることができたわけで、井伊の決断はわが国の歴史に特筆されるべき大きなものであった。

星亮一『井伊直弼』あとがき

星亮一氏の井伊の評価は「日本の真の改革のために一人戦い続けた幕閣」です。
対する私個人としては、「とはいえ安政の大獄はやりすぎ!」、ダークヒーローも暗黒すぎるし、「守るべきは徳川体制」が強すぎるような気がして、やはり曲者の印象が強い。
さあ、あなたは幕末の大老・井伊直弼に、どんな歴史的評価を与えますか?

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