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音大卒フリーアナウンサーへの道のり:7

1ヶ月以上あきましたが、こちらの続きです。

<その頃 会社では〜SVになる>

リーダーを経てスーパーバイザーへ。いわゆる中間管理職になりました。

休職した時点で役職を目指さなくなっていた、

 だからこそ合唱団に入ったり
 アナウンススクールへ通い始めたりした

のですが、手放すとやってくるものですね。

このチーム、わたしが引き受ける前はデスマーチでした。

前任者がどんどんメンタルをやられていき
マネジメントがうまくいかなくなり
持ち出しの業務が雪だるま式に増えていき
メンバーが終電まで泣きながら対応する
誰も手が空かないから業務整理できない(以下ループ)

という状態。

そういえば、人生の中で唯一、他人に対して大きな声で「いいかげんにしてください!」と怒鳴ったのもこの頃(笑)

日頃は「穏やかな笑顔(で言いたいことを言う)」わたしの声が、フロア内に響き渡ったことを今でも同僚は楽しそうに話して酒の肴にしています。

それだけ問題山積だったのですが、それを会社はすくい上げられず、わたしを含む作業者側は流れ落ちて来たものをレシーブするだけで精一杯。

まさに傾きかけた船。さすがに立ち行かなくなってしまったため、バトンがまわってきました。

一度わたしも休職しているので、先に同僚へ打診がいったことは知っているし、同僚は会社がゴリ押しできない理由を述べて、わたしを推したのは後から気づいた話。

わたしはわたしで、その同僚と業務を分け合えないと同じことが起きますよ、と半ば預言者めいた台詞を述べて引き受けました。

そこから、彼女とわたしの「お互いが背中合わせになって共闘する」というジャンプの漫画のようなチーム運営が始まりました。


<その頃 会社では〜わたしがやっていたマネジメント>

わたしがやっていたことは、もっぱらメンバーの心身の健康管理です。

というのはさておき、(あながち嘘ではないのですが)

日々の業務管理/整理
課題解決
傾聴で意見すいあげ
報告書あれこれ
ファシリティ管理
シフト管理
目標管理 などなど

お金以外のことはなんでもマネジメントしつつ、会社組織と営業とクライアントとチームメンバーの間に立って、スポークスマンの役割をしていたように思います。

例えば、

「チームのメンバーがどれだけがんばっているか」について、たとえ不意にきかれたとしても、数字などの具体的な根拠を添えて、いつでもアピールポイントを語れるように、とか。
(エライ人って突然きて、最近どう?とか言いますものね)

また、

できないことは数字を添えて笑顔で断れるように、とか。
(黒いマキさん誕生!)

そして、

会社や営業やクライアントの思いを咀嚼してメンバーに伝えて納得して動いてもらえるように、とか。
(ちっ しょうがねーなーやってやるか!の力は偉大!)

「わたしの役割はそれだな」と気づけてからは心からその立場を楽しめていました。会社へ行くのが楽しみでした。

役職上「上司」なのかもしれませんが、上でも下でもなく「間に立って伝える役割」。とてもフラットな関係を構築できていました。

そういう意味ではここも「現場」
ステージスタッフも、MCも「自分の役割とは」に基づいて動く。
まったく同じです。


<その頃 会社では〜わたしがやっていたマネジメント2>

ちょっとニッチな制作系ハードウェアを担当していたこともあり、チームのメンバーがそれはもう個性豊か(じゃないとつとまらない案件)

どうやったらそれぞれの特性を活かして
持っているもの以上のパフォーマンスを出して
仕事したー!という充実感を持って帰宅してもらうか
家に仕事のことを持ち帰らないでもらえるか

それを仕組み化することにも注力していました。

 みんなのアイデアを結集して「宇宙人対策」という施策を編み出したり、
 ちょっと会社に来るのが楽しくなる施策を色々と。

わたし自身は、アイデアマンではないのですが、人のアイデアを実現させるのは得意のようです。そのアイデア、こうやればできちゃうじゃん!?みたいな。たくさん実現させちゃいました。

雑談も大切にしていました。息抜き大事。当時のアニメやゲームや各種推しの話題は手広く聞き手になれていたと思います。だから遠慮なくアイデアを呼吸をするように吐き出してくれる。

あとは、業務中の声の変化に気づけて、すぐフォローにまわれるというのも、聴覚を活かした立ち回りだったように思います。

ほころびそうなところにすぐ気づき
すぐ縫い合わせる
ほころんでからだと対処に必要なリソースが大きくなる
ただでさえギリギリのリソースでまわしているので
ほころぶ前に見つけて何とかする
その必要性を全員が理解していて

「先手を打つ」「すぐやる課」「違和感を大事に」「よいパフォーマンスは健康から」「抜刀する?」「早く帰ろう」などいろんなキャッチフレーズが自然に生まれていました。

周囲からは、ヤン・ウェンリーと緋村剣心を足して2で割ったような人物像になっていたように思います。

そこにいるだけで 何だかよしなにしてくれる。
そういう風に思ってもらえていたかなと。


<その頃 会社では〜わたしがやっていたマネジメント3>

一方で、社内外の求められることに応える何でも屋にもなりました。
チーム外からちょっとした無茶ぶりがよく来る立場になりました。
結局、どこへ行っても無茶ぶられ人生です。

チームがうまくまわっているからこそ
手が空いてますよと言えて
上位レイヤーや他チームの仕事を手伝って恩を売っておき
何かあったら助けてもらう

日頃から信頼を得ておき
ここぞというときに主張を聞き入れてもらえるか
どう立ち回れば自チームが優位性を保てるか
万が一のときにすくい上げてもらえるか
すべてはそこを基準に考えていたと思います。

そしてそれはチームがうまくまわっていることが前提
同僚がその部分をきっちり担い
同僚は内側、わたしは外側を見るという
まさにお互いの背中を守り合う体制で運営することができました。

個人的にも、パラレル側のMCの対応やレッスンなど、自分自身も早く帰りたいから、業務改善の真剣度は半端なかった。よい循環です。

結果、過労死ラインからの Max 1時間 残業へ!
控えめに言って最高のチームへ!
毎日が戦場でしたが、とても楽しかった!


<身体のこと>

何度かTwitterでは呟いていますが、子宮頸部異形成が発覚したのはこの頃。

「放置すると子宮頸ガンになるもの」が自分の身体の中にある。
その事実を最初はどうしても受け止めることができませんでした。

受け止められない事実が目の前に現れたとき、どこかの小説やドラマで見たように、

「何がいけなかった?」
「何でわたし?」
「何でこのタイミング?」

そういう思考になるのだと。身をもって知りました。

周りに経験者もいない・打ち明けられる相手も少ない(弧の社会)
ネットで調べる情報はあいまい(でもわからないから調べざるを得ない)
先生の説明も微妙
検査が痛い
正しい情報はどこで得ればよいのか?

「信頼できる先生に出会うことが大事。」という答えにたどり着くまでが地獄のようでした。

結果、サードオピニオンでよい先生に巡り会えました。
あいまいなことを言わない
端的に答えてくれる
質問する余地をつくってくれる先生です。

今でもとてもお世話になっています。
ちょっと遠くへ引っ越す勇気がでない一因になるぐらいに。

お医者様も人なので、合う合わないは絶対にあります。

今、同じような境遇の方がいたら言えることは「まず、信頼できる先生と出会ってください」です。とても長い付き合いになりますから。わたしは一般の方と同じ検診頻度(年1)に戻るまで9年かかりました。

細胞診→結果を聞きに行く→よくなっていないので組織診→その結果を聞きに行く→ではまた次回ね のサイクルを繰り返す日々。

会社の昼休みに定期検診へ行っていました。でもそうしないと休みも取りづらくて通うのは難しかった。チーム構築がうまくいっていたからこそできました。「戻って来るの遅れてもいいからゆっくり行ってきてね」と行かせてくれたみんなに感謝しかありません。

診察台に乗ったあと職場に戻るのはなかなか精神的にタフだったなとは思います。真似はおすすめしません。

歳を重ねると、何らかの継続フォローが必要な疾患が出てくるものです。
みなさまどうか検診は怠らず、ステイヘルシーで!と心から言えます。


<電話応対コンクール出場>

面接で「対応品質と生産性は両立できる!」とエライ人にエライことを言って正社員登用されたのですが、現場での対応品質管理はどうしても優先度が下がってしまいがち。

そんな中、「教育部門が電話応対コンクールに取り組む」という情報が流れてきて、手を挙げました。自分の発言に責任を取りたいし、証明したかったからです。

内容はステージの上で模擬電話対応をするというもの。
相手を安心させる声と言葉。対応運びが必要とされます。

結果は、初出場で東京南地区大会3位入賞 東京地区大会へ進出。

思いがけず、高成績を収めることができました。

すでに声のトレーニングを受けているので、講師のアナウンサーさんに相談したりしながら、エレクトーンのコンクール以来の緊張の場を楽しみながら、過去の経験を総動員して出場準備を進められたこともよい経験になりました。

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<チームがなくなる>

パラレルでMCと会社の中間管理職を生きる生活、とても充実していたのですが、先を考えるきっかけになることが起きます。

自チームの案件ごと終息することになりました。

理由は、クライアントの拠点が海外に移ること、という自分たちの努力ではどうにもならないこと。だからこそ「仕方ない」「きれいにお別れしよう」と思えました。(恋人と別れるときみたいですね)

それはもう綺麗に業務を畳みました。
別れたことを後悔させてやる!みたいな気持ちがみんなに働いていました。

個人的には、この規模のプロジェクトから、合法的に手を引けるまたとない機会。身体のこともあった(さすがに働きながらの通院がしんどくなってきていた)ので「管理層を離れたい」「時短勤務にしたい」と当時の上司に相談したところ却下されました。

(あとからわかりましたが、その上司は会社には相談せずに却下したそうで、あとで大きな問題になったそうです)

MCの仕事も増えてきていて「辞めどきかな」と思うには十分なきっかけ。
しっかり入院+手術をして、他プロジェクトの立て直しを片付けて、会社を辞めることにしました。

このことで「会社員+MC」のパラレルではなく「MC+他のレギュラーワーク」へ軸足を変えることになります。


(ようやく、次で現在までたどり着けるはず。たぶん。)


〜風に吹かれる人生が、また1ページ〜

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